私がJENに仲間入りしたのは、2011年1月。ギリシャの「世界の医療団」に参加しアルジェリア南西部の砂漠地帯にあるサハラウィ難民キャンプで人道支援活動を8ヶ月間行った後のことでした。
私は、生まれも育ちもギリシャです。フランスとギリシャ、2つの国籍を持っています。大学はイギリスのリーディング大学とノッティング大学で学び、国際関係と外交が専門でした。2004年に大学を卒業。プロジェクトコーディネーターとしてロンドンにあるCommunication Companyで働き始めました。KODAK やthe British NHS(イギリス国民医療保険サービス)といったクライアントのプロジェクトを運営管理することが主な業務。様々なプロジェクト関係者間の調整を行うだけでなく、期限までに業務を遂行しなければならないという、優れたチームワーク力が要求される仕事でした。この仕事に挑戦したことで、事業管理に関する数多くのことを学びました。その一方で、自分は企業世界では満足感を十分に得られないことにも気づき、かつて学んだ分野により近い仕事に転職する決意をするに至ったのです。
ほどなくして見つけたのは、ロンドン・スクールオブエコノミクスにある国際書誌の編集の仕事でした。1年間勤務したのですが、兵役(ギリシャ人男性であれば誰でもいつかは果たさねばならない務めです)に就くためにギリシャに帰国することになったのです。私は、まず予備下士官としてミティリニというエーゲ海にある島(レイボス島としても有名)で兵役に就き、その後は、学歴も高かったためか、アテネにて大統領護衛官となりました。当時は、とても楽しいとは思えなかった兵役時代・・・。しかし、今振り返れば、面白おかしい思い出でいっぱいです!「軍隊は小宇宙だ」とよく言われますが、確かに、軍隊は、多種多様な経歴と経験を持った人たちの集まりだったからです。そういった意味では、軍隊に入らなければ決して知り合えない稀有な仲間に出会えた兵役時代だったと言えるでしょう。
兵役を終えた後ですが、私は、ギリシャに残り、そこで外交官試験に挑戦することにしました。試験準備の傍ら、金融系新聞社の国際部で記者として働き始めました。それは、ちょうど世界が大混乱に陥った頃のこと。その後、ギリシャでは、その経済が骨の髄まで震え上がってしまうような事態になりました。ギリシャの主要都市で発生した暴動デモは、その頻度が日ごとに増し、1年後には“ギリシャ経済危機”は現実のものとなったのです。この影響は私の仕事にも大きな打撃を与えることになり、新聞社との契約を更新できなかっただけでなく、外交官試験も無期限で延長となりました。そんな中、私は、人道支援の分野に進んでみようと真剣に考え始めたのです。
そして、チャン スは巡ってきました。ギリシャ「世界の医療団」の下、サハラ砂漠での人道支援活動に参加することになったのです!ギリシャ「世界の医療団」の使命は、「地球上で最も医療施設が不足している地域と言われる6つのサハラウィ難民キャンプに対し、必須医薬品の8割を提供する」ということです。夏は、50度を超える酷暑。30年以上もキャンプ暮らしをしてきた難民の生活状況は悲惨なものでした。それでも、西サハラ独立という大義のために戦い続ける難民たちの、困難から立ち直る姿と決意を、私は称賛せざるを得ませんでした。西サハラでの活動を通して、人道支援という世界を発見し、その関心をさらに膨らませることになったのです。活動を終えるころ、別の人道支援事業はないか探し始めました。そのとき知ったのがJENのハイチ事業でした。
ハイチに来て1か月が経とうとしています。JENのチーム、そして彼らの仕事はとても素晴らしく、自分が求めていた以上の満足感を味わっています。一方で、地震による被害は甚大で、今尚、多くの場所で、瓦礫や崩壊したままのビルが見られます。ハイチ人の人生まで粉々になってしまったかのようです。このような状況の中、給水施設建設に熱心に取り組み、同時に衛生知識や、続けることの重要性を人々に伝えるJENの事業は、小さくともハイチ復興への足がかりになっていると信じています。