« 2010年8月 | トップページ | 2010年10月 »

2010年9月28日 (火)

2010年夏募金のお礼

 2010年夏募金では、多くの皆さまにご支援をいただきましてありがとうございました。

Gul_bahar_no_1_middle_school_wate_2  ある方からは、
「暑くても、水道をひねると、いつでも水が出てくるのが当たり前の私たち。
アフガニスタンの子どもたちにも、きれいな水をたっぷり飲ませてあげたいですね。」
いうメッセージを頂きました。

 2010年夏募金の収益金922,279円は、皆さまの温かいお気持ちを大切に活動に使わせていただきます。

 ありがとうございました。

9月 28, 2010 企業・団体の皆さまからのご支援市民の皆さまからのご支援イラク新潟スリランカサポーター募金パキスタンJENスタッフJEN東京本部事務局&海外事務所スーダンミャンマーハイチ |

2010年9月16日 (木)

スタッフ紹介: ロマーン・ブリエ

Cimg0356_low  私は、ベルギーとルクセンブルク、ドイツとの国境近く、つまりフランスで、今から37年前に生まれました。フランスの北東部を離れたのは、もうずっと前のことです。ごく普通の子ども時代を過ごし、10代はサイクリングに身を投じました。高校を卒業するとき、ワインで有名なボルドーで「フランスエリート訓練センター」に入るため、生まれ育った町を出ました。当時は、まだ18歳の田舎者でした。ボルドーに赴くということは、家族や学校の仲間、1年中温和な気候、サイクリングで成功したいという夢、プロ意識などの間で揺れ動く気持ちに鞭を打ち人生を選択しなければいけない…せつない出発でした。

 翌年、ビジネスを学ぶため、ナンシー(という街)に戻りました。2年後に学校を卒業しましたが、さらに勉強するため、イギリスに行く準備に取り掛かりました。当時、フランスでは、男子は10ヶ月間軍隊に入らなければ行けない法律がありました。選択肢はありません。私は法に基づき兵役につきました。軍隊では、なに一つ面白いこともなく、10ヶ月間、少ない賃金(1月100ドル)で、とにかく退屈に過ごしました。にもかかわらず、なぜか私は徴兵の期間を延長し、外国派遣に応募するというリスクをとりました。子どもの頃、アフリカに魅せられていたからです。外国派遣の選択肢の中からアフリカに程近い国を探し、選び、そして応募しました。

「セネガルの首都、ダカール!」

 1996年1月4日、この2文字を見たときの喜びと興奮といったら、大変でした。ダカールは、私の両親の生まれた小さな町に、とても近いのです。さあ、待ちに待った、西アフリカでの2年間の生活のスタートです!!!ラッキーなことに、仕事では、西アフリカ・フランス軍本部チーフの秘書という、非常にチャレンジングなポジションに就くことができました。さらに、なんといっても、アフリカ内での4ヶ月ごとの休暇が、もれなくついてきました!!!

 1998年末、兵役を終えてフランスに戻りました。その時、自分は、いつか人道支援に携わるだろうと確信に近い予言をしました。

 ところが、その後の私は、なぜかスーパーマーケットの店長として働き始めました。2年間グアドループで、3年間パリで働きましたが、やがて、人道支援の世界に入りたい、という最初の思いに立ち戻り、我にかえりました。


 2010年3月6日にJENに参加しました。NGOの世界で働けることを大変嬉しく思います。これまでの経験が、人道支援の世界の中で、いかに役立っているかを毎日感じます。

 特にここハイチには、何世紀も前に、西アフリカから奴隷として連れて来られた人々の子孫が多くいます。自分がかつて住んだ国をルーツに持つ人々とともに汗を流し、辛くもあり、奥深い歴史に気骨に生きるハイチの人々と共に働けることに、やりがいを感じてます!

9月 16, 2010 JENスタッフハイチフランス |

2010年9月13日 (月)

スタッフ紹介: 成田俊介

355  海外事業部 パキスタン・アフガニスタン担当 プログラム・オフィサー 成田俊介

 日本の大学では国際政治を学んでいました。在学中、ロシアを旅行した際、旅先のモスクワで民族紛争を背景にしたテロ事件が発生し、その体験から、将来は紛争や民族対立の解決に関わりたいと漠然と思うようになりました。

 そして、帰国後、たまたま大学の近くに国際協力(旧ユーゴスラビアでの難民支援)をしているNGO があることを知り、事務所に話を聞きに行ってボランティアを始めたのがジェンとの出会いです。その後、ジェンでのインターン経験を通じて、将来は国際協力に携わる仕事がしたいという思いがますます強くなりました。

 大学の交換留学プログラムに応募したのは、その後です。PEACE & CONFLICT STUDIESのプログラムが充実しているオーストラリアの大学に1年間留学しました。今振り返ると、実際、その時大学で学んだことは、今の実務にはそれほど繋がりはありません。ただ、異なる価値観や文化的背景を持つ学生と接する機会があったことは、今も役に立っていると思います。

 オーストラリアに留学した当初は、文化の違いとコミュニケーションの不便さからフラストレーションがたまり、「何で○○人は○○なんだ!」と憤ることがありました。そんなストレスが続いたある日、ふと「自分はイライラする原因を異文化や他人の中に見つけようとしている」と気付きました。それに気付いてからは、何かあっても、お互いが持つ背景の違いのせいとして決めつけたり、議論を諦めたりせず、正面から個々に分かりあう努力をするようになりました。このことは、イスラマバードに2年間駐在して、パキスタンやアフガニスタンに住む現地の職員や事業関係者と付き合う際にも役に立ちました。

 ジェンが行う支援は、現地の人びとが主役です。それは、現地の被災者であり、現地のスタッフです。現地のスタッフとともに、現地の人びとの自立を支えるのがジェンの目指す支援です。ジェンが去った後にも、彼らの自立した生活が続くことが重要だからです。そして、総務・会計という立場から、現地のスタッフが最大限に力を発揮できる環境を整えることが私の仕事です。

 よい支援を行うためには、スタッフとの信頼関係が重要です。私自身、人生経験豊富な現地のスタッフを心から信頼していました。彼らとともに、人びとの自立する力を信じることが、事業の成功につながると感じています。最初の赴任地のパキスタンでも、次の赴任地のインドネシアでもそうでした。また。そのことにやりがいを感じます。留学時代の経験は、ここに活きているのだと思います。

(写真:インドネシア パダン沖地震緊急支援時)

9月 13, 2010 パキスタンJENスタッフJEN東京本部事務局&海外事務所 |

2010年9月10日 (金)

スタッフ紹介: アズマット・アリ

0907jen05_2  私は、祖父の所有する大きな建設会社でキャリアをスタートしました。しかし、その仕事があまり好きではなかったので、祖父が亡くなった後、すぐに辞めてしまいました。私は、幼いころから祖父に育てられたので、祖父はきっと成功した私の姿を見たかったことと思います。


 9.11のあと、すぐにゲストハウスの夜間受付として働き始めました。アフガニスタンの治安が非常に悪かった為、多くのNGOは隣国であるパキスタンに事務所を構え、遠隔操作をしていました。

 私は毎日、たくさんの外国人NGOスタッフに対応しました。彼らのマラソンのような、止まる事のない働きぶりに驚きました。それは私の知らない仕事で、日々私を感動させました。いつか、自分も
NGOの一員になりたい、と夢見るようになりました。

 パシュトゥン語は、アフガニスタンの公用語のひとつであり、私の母国語です。多くの
NGOは、パシュトゥン語と英語が話せるスタッフを探していました。そこで、私はある組織に応募し、合格しました。その時から人道支援のキャリアがスタートしました。これこそが私の求めていたものでした。

 その後、別の
NGOで2年勤めました。教師や役人、生徒たちの調整にあたり、とてもよい経験を蓄積しました。

 2005年10月、パキスタンを襲った巨大地震は、私の人生のなかで最悪の出来事です。実際に自分の目で惨事を見るのは、このときが初めてでした。地震から2日後、JENはパキスタンに入り、被災者の支援を始めました。JENのことは、友人である日本人の通訳から聞きました。緊急支援を専門にするJENは、当初、1ヶ月のプロジェクトを組み立てていました。私は面接を受け、カシミールを拠点にする現地スタッフになりました。

 その頃、日本とフランスから来たスタッフが、昼夜、被災者たちの為に働き、フィールドの経験が未熟な私は、彼らを懸命に手伝っていました。地震の被害状況が深刻だったため、JENは活動期間を延長しました。その際に、私は常勤のスタッフになりました。やがて、同僚から多くを学び、責任は日に日に増えていきました。

Img_6791_low  パキスタン事業4年目の2009年9月末、インドネシアのスマトラ島を巨大な地震が襲いました。私は、今度は、国際スタッフとして緊急支援を実施するミッションを与えられました。重大な責任を課されたのです。日本、そしてインドネシアの仲間たちの協力によって、2010年5月末、8ヶ月間の緊急支援を無事完了し、それを見届けることができました。

 そうこうしている間にも、世界中で災害は相次ぎ、2010年1月に、ハイチ地震がおこりました。この地震で、20万人以上の人々が亡くなりました。インドネシアでのミッションを終え、パキスタンでのプロジェクトに戻ると思った矢先に、今度は、ハイチ地震の被災者支援のミッションを与えられました。そして、2010年7月から、ここハイチで、活動に参加しています。

 今、私はフランス、日本、カメルーンから来たスタッフと多くの現地スタッフと共に、ハイチの人々が一日でも早く安心して暮らせるよう、さまざまなプロジェクトを行っています。そして、被災者の為にベストを尽くしています。

 時々、ふと、祖父は喜んでいるだろうか、それとも悲しんでいるだろうか、と考えます。なぜならば、私は彼が望んだようなリッチなビジネスマンではないからです。でも、人々に必要とされ、彼らとともに歩む人生に満足しています。

 きっと、祖父は、この空のどこかで微笑んでくれていると思います。

9月 10, 2010 パキスタンJENスタッフハイチ |

2010年9月 8日 (水)

スタッフ紹介: マリー・ディバング

Marie_id_pic  私の名前はマリー・ディバングです。カメルーンの首都であるドゥアラで生まれました。5人兄弟の2番目です。

 カメルーンの聖ヨセフ大学で政治学の修士号を取得しましたが、研究を続ける為に7年前にレバノンのベイルートに行きました。そこで、平和構築の和解について学びました。レバノンで暮らすことは、私にとって、理論的な研究を補強する機会であり、基礎的な経験となりました。

 2006年の夏、レバノンは人道的危機にあり、私は南レバノンから逃れてきた人々に避難所を提供しました。その年、聖ヨセフ大学によって行われた研修の一部として、「33日戦争」の後に再建された地元の学校でマルワヒム(南レバノン)の人権の為に英語を教えました。人道支援に関わる傍ら、たくさんの文化的な活動もしています。そうすることにより、レバノンの社会の違った側面を知る機会を得ることができます。

 ハイチに来る前、フランス大使館文化センターでフランス語の教師をしていました。2週間前からJENの衛生促進事業のプログラムオフィサーとして働き始めましたが、大変興味深いことが多いです。

 私たちの活動が、衛生面での人々の習慣を改善できると信じています。

9月 8, 2010 JENスタッフハイチ |