2015年7月 9日 (木)

昨年度事業参加者の声

 インタビュアー: R.クガネサラサ(フィールドオフィサー)
 インタビューを受けた人:サヤンティニィ―(農協の書記、ムハマライ地区、25歳)
 インタビュー日:2015年6月12日

 JEN職員 「ワナッカム(おはようごうございます)! 農業協同組合の書記官として、農協の機能や周辺の人々にとっての利点を教えて下さい」 

 事業参加者「もちろんです。私たちの農協に訪問いただき、ありがとうございます」
 
「私はこの農協の書記官として、月1回行われる会議を調整し、その中で議事録をとったり、会議で取り上げられた課題を決断に向けてサポートしたり、といった役割を担っています。私たちの農協は今年活動を開始し、これで2回目の月例会議になります。現在、製粉機を用いて追加で製粉できるもの、機材の欠点、収入のさらなる向上について話し合いをしているところです 」 

「(利点についてですが)近隣住民はお米やとうがらしを製粉しにやって来ます。1日に3~4世帯ほどが訪れます。以前は近くの町まで行っていましたが、私たちの農協で製粉を行うようになって、時間を短縮し、無駄な支出を減らすことができるようになりました」

 JEN職員「(事業参加後)村で感じた変化や発展についても教えて下さい」 

 事業参加者「私たちの村についてですが、未だに村に戻ってくる帰還民がいます。(一方で)、過去に日雇いの仕事で生計を立てていた人々はある程度は定職につき、幸せに生活している人もいるように見えます。 そして、ほとんどの世帯が恒久住宅を持ち、互いに協力的になったように見えます。人々は今自由に動きまわれるようになり、治安の問題もありません。 このように生活環境を楽しめるようになったことは大きな変化です」

「製粉機のオペレーターの代わりに食料を製粉させてもらった時は嬉しかったです。理由は、その時この農協が私たちの村に属しているということを実感できたからです。なので、村のために働けるこの仕事を贈り物であるかように感じています。私は全ての農協メンバーが手と手を取って助け合い、社会向上を築けるようになったら嬉しいです。 この農協の活動がさらに広がって、近隣の村の人たちも恩恵が得られるようになることが私の夢であり、楽しみです」

 【JEN現地スタッフが農協の建物の前で、農協の書記にインタビュー中】
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【JENでは、皆様からのご寄付を受け付けています。ご協力をよろしくお願いします。
ご寄付は、こちらから受け付けております】

Sri lanka

7月 9, 2015 北部緊急支援農業支援生計回復事業 |

2011年9月15日 (木)

【北部】JPFモニタリングチームの訪問

 9月5日から6日にかけて、ジャパンプラットフォーム(JPF)モニタリングチームがスリランカを訪問しました。ジェンスタッフも同行し、いくつかの地域で、住民と直接いろいろな話をしました。

 1日目は、6月末に完了したワウニア県ワウニア郡での井戸修理および井戸清掃事業のモニタリングです。
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この写真は、井戸が生活用井戸としてだけでなく、農業用井戸として住民の生計支援に役立っているという一例をモニタリングしている写真です。
写真にも写っていますが、元気いっぱいに育っているバナナの葉が、井戸の後ろに続いています。

 2日目は、7月上旬に開始したムラティブ県プドゥクリルプ郡でのトイレ付き仮設住宅建設および井戸修復・清掃の事業地をモニタリングです。
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この地域は、最後まで紛争地域だったため、かなりの被害を受けています。地雷の簡易調査は終わりましたが、依然として不発弾の簡易調査を続けている状況です。また、道中周辺には、トラクターやトタン板といった物が、道路脇に数多く廃棄されています。
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私たちは鬱蒼とした草木で覆われた険しい細い道を慎重に通り抜け、ようやく最初の住民の家にたどり着きました。
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住民の了承を得て、家の中も見せていただきました。

この地域では、家の壁が、大きさの違う廃棄されたもので仮に覆われています。場所によっては塹壕の脇を通らなければ辿り着かない地域もあるので、住民によって、まず、これらの場所への入域が可能になってから、必要な材料を事業地にそれぞれ運びこむことになります。

 現在9月末の雨季を前に、JENワウニア事務所は事業地で全ての石工作業をなんとか終わらせるべく事業を進めております。

====== ご報告 =============

平成23年度 外務大臣表彰受賞しました。

これまで、JENの活動を温かくご支援くださいました、
支援者の皆様に、深く感謝申し上げます。
詳しくは、こちら

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9月 15, 2011 北部緊急支援 |

2011年7月 7日 (木)

【北部】事業の終わりと始まり

 ジャパンプラットフォームや支援者の皆さまのご協力で、ワウニア県ワウニア郡での井戸修理および井戸清掃事業が6月30日をもって無事終了いたしました。 深く感謝いたします。

 事業地であるワウニア郡では、村人が修理作業のお手伝いをしたり、
 熟練技術者がその場にある木々で作った昔ながらの伝統的な足場を用いて石工作業が行われました。

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 写真は完成したばかりの井戸を使用する村人です。

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 先日プログラムオフィーサーが県知事にお会いした際、この区域で広範囲で井戸清掃や修理を行っている事に対し、県知事からは高い評価の言葉をいただきました。

 次期事業は、ワウニアから車で33時間半かかるムラティブ県で、引き続き井戸修理および清掃と、188世帯対象のトランジショナルシェルターおよびトイレの建設を7月1日より開始し、今年の11月まで事業を行います。
 今年も上半期が終わりましたが、JENワウニア事務所は本日も元気いっぱいで頑張っております。 今後ともご支援のほどよろしくお願いいたします。
 
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(上の写真は、プログラムオフィサーと親しい他団体が建設したトランジショナルシェルターに住んでいる村人の家を訪ねているところ)

7月 7, 2011 北部緊急支援 |

2011年5月26日 (木)

故郷で再スタート~井戸の修復とともに~

 マラカサンさんは2007年8月に地元マラガイを追われてから9か所を転々とし、2009年にマニックファームという避難民キャンプにたどり着きました。その後、故郷に帰って来られたのは、2010年10月でした。

 避難生活が始まるまでは、所有していたトラクターと水ポンプを使い、夫が農業をしていました。しかし、今の彼女にはそのどれもがありません。

110526  地元での生活を始めるに当たってまず立ちはだかったのが、井戸が使えないということでした。彼女の井戸は破損しているだけでなく、人骨が出てきたり、汚染が見て取れました。そのため、遠くまで水を汲みに行くことが新たな日課となったのです。

 ジェンが井戸を修復・清掃することにより、彼女の井戸は以前と同じように機能を果たすようになり、農業も再開するに至りました。

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(本事業はジャパン・プラットフォーム、そして、支援者の皆様のご協力のもと実施しております。)

5月 26, 2011 北部緊急支援 |

2011年3月24日 (木)

【北部】ジェンにかかわり1年‐ムクンタン

 スリランカ北部のワウニア県ワウニア郡で1月から始まった井戸の修復(*1)は、3月上旬にようやくスリランカ政府から活動許可が下りて、本格的に活動が始まりました。その活動の主軸となっているのが、本日ご紹介しますプロジェクト・オフィサーのラージャラトナム・ムクンタン(37歳)です。ムクンタンは、4才の娘と奥さんがいて、ヒンズー教を信仰しています。110324_201012_2

「私が9歳のころから紛争が激しくなりました。私の家は反政府地域につながる幹線道路沿いにあったので、治安関係者による夜間の強制家宅捜索を受けたり、戦闘のために2~3日、知り合いの家に避難しなければならないといったことがしばしばありました。そして、1990年には、戦争のためとうとう家族とともに家から逃げなければならず、それから避難・避難の生活です。その時の自宅はまだ政府軍の警戒地域にあり、戻ることができません。

 若いころは会計士になろうと思っていました。そのころ商業・会計コースが学科に新設されおもしろそうだったからです。ですが、私が住んでいたところは反政府軍の影響下にあったため、会計の勉強ができるコロンボに出ていくためには保証人が必要だったのです。しかし、コロンボに知り合いがいないため、コロンボに行くことができませんでした。唯一出てくることができたワウニア市にはその当時、会計事務所さえありませんでした。会計の勉強はしていたのですが、働くところもそれほどなかったので、その頃ボランティアをしていたスリランカ赤十字で働き始めました。

 もともと、紛争の影響で周りに厳しい環境にいる人々が多かったため、そのような人々を支援するのが好きでした。小学校の頃もボーイスカウトのようなグループに入って活動もしていました。今、ジェンに入って人道支援を続けていけて満足しています。娘にもぜひ会計士ではなく、ソーシャル・ワーカーになってもらいたいと願っています。」

(*1 この井戸修復支援はジャパン・プラットフォームやみなさまのご支援で進められています。)

3月 24, 2011 北部緊急支援 |

2011年2月10日 (木)

2010年スリランカ北部での活動を振りかえって

 スリランカ北部。

 紛争で廃墟と化したワウニア・ノース郡の村に戻った帰還民は、ビニールシートで雨露をしのいでいました。そこで、JENは、彼らにトタン板と木材を配布し、仮の家を建設することができました。

110210_6  その後、帰還民からなる井戸の清掃チームを結成し、大半の家にある井戸の清掃を行いました。紛争は、建物や生計手段が失われてしまうという物理的な被害に加え、トラウマや避難生活のストレスによる家庭内の不和や、地域の営みの中断によるコミュニティ機能の喪失という目に見え
にくい被害も起こります。1年半にわたった避難生活の後に廃墟と化した村に戻って、初めて、村びと同士で協力して行う仕事となったのです。

110210_7  JENは、井戸清掃を中心に、ワークショップや共同作業を通して、引き続き近隣の住民同士のコミュニケーションを増やすサポートをしてまいります!

2月 10, 2011 北部緊急支援 |

2011年1月13日 (木)

北部でも心機一転

 あけましておめでとうございます。スリランカの正月は4月の半ばですが、それでも多くの人が1月1日0時に合わせて大音響の爆竹を鳴らしたり、1月1日の朝ごはんに伝統的なミルクライス(キリバトゥ)を作ったりして楽しんでいました。

 年末を迎え、東部に引き続き、北部でも一つの事業が終わりました。昨年6月からジャパンプラットフォームと協力して進めていたワウニア・ノース郡での井戸修復と清掃、農業用資材の配布、補完食料の配布、そしてワウニア郡での井戸の清掃。紛争後、荒れ果てた村に戻ってきた人々を支援してきました。

 最後の活動は、農業用資材の一つ、殺虫剤用の噴霧器の配布でした。雨季が一段落する1月からこの噴霧器を使って、雨季の間に育ったイネや穀物の世話を進めます。配布する際には、製造会社の技術者に講習会を開いてもらい、安全に噴霧器を使う方法を教えてもらいました。住民が長く安全に噴霧器を使ってくれることを願うばかりです。20110113_vav_north_jpf2_sprayer_use
 
 そして、1月1日から新しく始まった事業は、同じくジャパンプラットフォームと協力して進めるワウニア郡の他の地域での井戸の修復と清掃です。今回支援する人々は、昨年7月以降に戻ってきたばかりの人々です。長らく最前線で激しい戦闘が行われた地域のため、多くの井戸が壊れています。人々が生活用の水に容易にアクセスできるようになり、一日も早く以前の生活に戻れるよう、ジェンは今年の5月までこの地で活動を進めていきます。20110113_vav_north_paranthan_jpf2_h

1月 13, 2011 北部緊急支援 |

2010年12月 2日 (木)

シャンタクマールさんの小さな農園

 シャンタクマールさんは奥さんと2人の子どもと一緒にパランタン地区のマティヤマドゥ村に住んでいます。彼は32歳で、小さな農園を経営しています。

 8か月前に、避難民キャンプから戻ってきたのです。戦争時の砲撃によって両方の足を失い、また、ほとんどの財産を失いました。

 現在は、義足を使って生活しています。戦闘は、彼の母親と兄弟を奪いました。夫を亡くした姉とその7人の子どもたちと一緒に暮らしているのです。子どもたちは再び生まれた村で学校に通うことができるようになりましたが、子どもの1人は戦争で傷を負い、耳が不自由になってしまいました。

20101124_shanthakumar_and_wife_jpf_  JENからの支援により、農園を守るための有刺鉄線をもらいました。この有刺鉄線は放し飼いにしている牛やヤギから作物を守るために非常に重要です。農業サービスセンターから豆の種を買い、蒔きました。

 JENは、今月、殺虫剤噴射機を配布する予定です。今は奥さんも一緒に農作業をしていますが、今後、彼の親戚も手伝ってくれることになっています。
 
 シャンタクマールさんは、皆さまからの支援により、農業で十分な収入を得ることができるようになることを、心から感謝して下さっています。

12月 2, 2010 北部緊急支援 |

2010年11月 4日 (木)

井戸の修理―ある若い女性の場合―

 ラージェスワリさん(24才女性)は、北部ワウニア県の紛争で被災した村に8ヶ月前に戻ってきました。彼女には、2人の子どもと夫がいますが、夫は反政府活動の疑いをかけられて未だに拘束されています。また、3人の子どもがいる妹家族も一緒に住んでいますが、妹の夫も同じく拘束されたまま戻ってきていません。村はずれの彼女の家には2人のお母さんと5人の子どもたちが生活しています。

 3か月前、彼女を訪ねた時には、壊れた井戸のものすごく汚れた水を生活用水として使っていました。飲み水は500mほど離れたところから毎日汲んできていたのです。その後、その井戸を清掃したときには、井戸の中からサルや牛の死骸まで出てきました。101104_3

 今、ラージェスワリさんの井戸は元通りになりました。井戸の水を飲み、料理や庭の水やりに使っています。彼女は、皆さまが井戸を修理して清掃したことを心から感謝してくれています。

 この事業はジャパン・プラットフォームや支援者の皆さまの協力を得て実施しています。101104_4

11月 4, 2010 北部緊急支援 |

2010年10月 7日 (木)

ワウニア北部事業の井戸修理の後

20101007_nainamadu_jpf_well_renovat  私の名前は、ムトゥクマールと言います(Mr.Muthkumar)。ワウニア・ノース郡のナイナマドゥ行政地区(Nainamadu GN Division)に娘一人と兄弟家族と一緒に住んでいます。私は昔から農業をしています。かつては、トラクターやいくつかの給水パンプを持っていました。また、大きな農業用井戸を、飲水や生活用水としても使っていました。しかし、その井戸も紛争で壊れてしまいました。
 
 9ケ月前に自分の家に戻って来た際、井戸掃除を何度か試みましたが、失敗に終わりました。井戸は既に異臭を発していて、まったく使用できない状態になっていました。ですが、JENが井戸修理をし、掃除をしてくれたおかげで、もう一度飲水、生活用水、農業用として使えるようになりました。3年ぶりにこの井戸を使って野菜をつくれるようになったので、私はJENにこころから感謝を述べたいです。

20101007_nainamadu_jpf_well_renov_3 20101007_nainamadu_jpf_well_renov_4  (写真は、ジャパン・プラットフォームや支援者の皆さまの協力で運営している事業で、井戸修理過程がほぼ完了する時期にJENスタッフがムトゥクールさんの家を訪問した際の写真。)

10月 7, 2010 北部緊急支援 |

2010年9月 9日 (木)

ワウニア北部に住むJENコミュニティーワーカーの話

 私の名前は、キィルシャンティと言います(Ms.V.Kirushanthy)。ワウニア・ノース郡のナイナマドゥ行政地区(Nainamadu GN Division)に住んでいます。 私は9カ月前に自分の家に戻って来ました。私は一人っ子で、紛争の間に母を亡くしました。 紛争による避難のため、高等学校に行くことをあきらめなくてはなりませんでした。私の家族は農家で、自宅には農業用の井戸と耕作地があります。紛争以前は、農業器具も持っていましたが、今は全てを失いました。

 私が避難キャンプ「マニックファーム」にいた時は、いろいろなことに失望したり、不安な気持ちでいっぱいでした。私たち家族は、帰還して一から新しい生活の立て直しを始めなくてはなりませんでした。JENの名前を聞いたのは、私がマニックファームの6番目地区に住んでいた時、JENによる給水を実施の時でした。

 JENのコミュニティワーカーとして、私は仕事をとても楽しんでいます。母が亡くなった時の悲しみを少しでも忘れることができるからです。私の母が亡くなってから、父の体の具合までも悪くなりました。また、私はコミュニティワーカーとして、同じような経験をして苦しんでいる多くの人たちに会います。それでも、人々と交流を深めることで私の苦しみも少しずつ癒されてきているように感じます。コミュニティワーカーの仕事を通して、新しい技術や知識を得ることができたり、他の村の人々や生活についても知ることができるので、私はこの仕事が好きです。この仕事でJENから自転車を借りていますが、仕事に凄く役立っているだけでなく、仕事で何もない地域や森の中を通る時に安全を確保してくれます。私は私の村を代表してJENに感謝を述べたいです。

(写真は、ジャパン プラット フォームや支援者の皆さまの協力で運営しているワウニア事務所でキィルシャンティを含む3人のフールドワーカーとフィールドオフィサーとの会議の様子。もう1枚は、キィルシャンティの写真。)
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9月 9, 2010 北部緊急支援 |

2010年6月17日 (木)

ワウニア北部のある村からの声

 私の名前はラサティ。マティヤマブ村に住む64歳です。5人の家族と一緒に住んでいます。夫は病気を患っています。

 私は2008年から7回にわたって避難を強いられました。 8か月間ほど政府の社会福祉センターに住んでいましたが、5か月程前に、かつて住んでいた場所に帰還しました。そのとき私が目にしたものは、フェンスも何もないただの空き地に変わり果てた、かつての自分の家でした。

 私は、政府から12枚のトタン板と25,000ルピーをもらいました。自分の生活をなんとか再開させたいと思っていましたが、状況は変わらず、失望していました。トタン屋根がかろうじてあったものの、ベットシーツや厚手の服を使ってシェルターの上部を覆った程度の家で、安全とは言い難い状態にありました。

 今は、ジェンからトタンやココナッツの木材をもらって家を補強することができ、安心です。JENの支援には本当に感謝しています。

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ジャパンプラットフォームや支援者の皆さまの協力 でシェルター配布をした事業地で、スタッフが上記の村人の家を訪れた時の様子。

6月 17, 2010 北部緊急支援 |

2010年5月20日 (木)

もとの生活を取り戻すために

 アジアで最も長い26年間にわたった紛争が終結してから、1年が過ぎようとしています。

 戦闘に巻き込まれた北部地域・タミル人住民のほぼ全員が、反政府勢力タミル・イーラム解放のトラ(LTTE)に「人間の盾」として囚われ、政府軍の追撃を逃れる避難生活を送り、最後には激しい砲火にさらされながら逃げ延びて来ました。

 現在、およそ2年にわたる避難生活を終えた人々は、やっと荒廃した故郷に戻り、不安を感じつつも、生活を立て直すために奮闘しています。今日は帰還民のひとりの姿をご紹介します。

氏名:ナワム(47歳男性)
3月に自分たちの村に戻ってきた頃は、国連から、米や小麦粉などの穀物と砂糖・油しか受け取っていませんでした。そして4月、JENからカレー粉やココナツなどの食料品を受け取りました。7人家族なので大変助かります。JENから調理用食材を受け取った日は、久しぶりにおいしい味付けをした4種類のカレーを食べることができ、お祭りのような気分でした。
私は車の修理工なので、早く仕事を探そうと思っています。しかし、妻が戦争で亡くなったので、私が仕事で遠くに出かけることに、子どもたちは不安に感じているようです。これからどうしたらよいのか、今はまだ、何もできないでいる状況です。

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ナワムさんの子どもたち

5月 20, 2010 北部緊急支援 |

2010年1月14日 (木)

「新しい年、さらなる挑戦」

 明けましておめでとうございます。2010年のはじまりと共に、ジャパン・プラットフォームや皆さまのご支援により、北部にて新しい事業が始まりました。北部の避難民や帰還民に補完食料や衛生キット、緊急シェルターキットを5月末まで配布する予定です。

1001114_photo_1_20100105_tracto_bow  これに先立ち、皆さまのご支援を活用して、激しい戦闘のあったキリノッチ県で12月下旬より給水活動を開始しました。3000リットルの給水車2台を使って、2つの村に1ヶ月ほど給水します。給水車は日に2回から3回、水源と村々の水タンクを往復しています。

 キリノッチ県はこれまで国際NGOの活動が許されていなかった地域ですが、ジェンは水道局に給水車を提供し共同で活動する形をとることで、国連機関を除いて、国際NGOとしては他に先駆けて事業を始めることができました。まだまだ政府軍の管理が厳しく国際スタッフは入れないのですが、現地スタッフが給水先を見て周り、支援が人々に行きわたっているかどうかを確認しています。

100114_photo_2_20091221_kilinochchi  戦闘地域であっただけに、戦闘の爪あとが各地に残っています。これは、キリノッチの市内の倒壊した給水塔です。

100114_photo_3_20100105_water_board  また、水道局の事務所も屋根などが壊れてしまい事務所として使えない状態です。

100114_photo_4_20091221_a9_vanni_ph  家が壊れているため簡易テントをたて集まって生活している人々もいます。

 戦闘があった地域への帰還はこれから本格化します。家や村を追われた人々が安心して村に戻って生活を再開できるように、ジェンは今年もスリランカでの支援を続けていきます。今年もご支援をよろしくお願いいたします。

1月 14, 2010 北部緊急支援 |

2009年12月24日 (木)

2009年を振り返って

 2009年は、スリランカにとって、25年以上にわたった内戦が終結するという歴史的な1年でした。

 年が明けてすぐ、政府軍が北部の反政府勢力の中心都市であったキリノッチを攻略し、徐々に北部全域を制圧、5月19日には大統領が勝利宣言をしました。これをうけ、ジェンは、2009年の6月より北部での避難民支援を行ってきました。

 東部では2007年から引き続き、紛争の被害を受けた地域の復興支援を行っており、人々が経済的にも精神的にも自立した生活を取り戻すためのサポートをしています。バティカロア県で活動しているジェンのチームは、2007年より事業参加者の前向きな気持ちを引き出し、精神的な自立を支える経験とノウハウを蓄え、「ジェンらしい」事業を実施するのに欠かせない存在でしたが、ますますチームとしての力を増してきました。

 北部では徐々に避難民の帰還・再定住が進んでいます。今後、北部での帰還・再定住を支援できるようになった際には、東部のモデルを北部にも広げていきたいと考えています。東部のスタッフと北部のスタッフが相互に訪問し合って学びあう機会をつくりたい、という思いもあります。

 2009年は、温かいご支援をたまわり、本当にありがとうございました。ジェン・スリランカは2010年も、より多くの人々の自立を支えるために努力してゆきます。引き続き、温かいご支援をどうぞよろしくお願いいたします。

12月 24, 2009 緊急支援東部帰還民支援北部緊急支援 |

2009年12月 3日 (木)

「避難民キャンプの外で生きる」

 スリランカ北部ワウニア県で、ジャパン・プラットフォームと協力して実施してきた避難民キャンプへの給水事業も、残すところ12月だけとなりました。

 この間、ワウニアのキャンプの人数も12万人まで半減しました。キャンプから去った避難民の中には、自分の村への帰還を認められて戻る人々、治安の問題から自分の村には戻れずキャンプ以外の親戚・知人宅に身を寄せる人々など、さまざまな人がいます。

 ワウニア県の親戚・知人宅に身を寄せている人の中には、一つの親戚に3家族の避難民が同居しているケースがありました。写真左に移っているメリーさん(33)は、この家の大黒柱。90年代の戦争に巻き込まれ避難民キャンプに移り住み、3年前、ワウニアの田舎にあるタダックラム再定住村に移住しました。しかし、2年前に近所でだんなさんを何者かに殺害されて以来、2部屋しかない自宅で4人の子どもたちを育てています。

 そのメリーさんのもとへ今回、避難民としてIDP(国内避難民)キャンプから解放された義理のお父さんやお母さんが身を寄せ、ついでお義姉さんの家族、義妹さんの家族が加わることになりました。

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メリーさんと義理の父母、姪

 お義姉さんには2人の子どもと赤ん坊、義妹さんには1人の赤ん坊がいます。2人のだんなさんはどちらも、LTTEと関係があると疑われ、隔離キャンプに依然として収容されています。みんな、メリーさん宅に身を寄せ、収入の目処もなく不安な日々を過ごしながら、地元に戻れる日を待っているのです。

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4家族が同居する2部屋の家

 このメリーさん一家のように、もともとワウニアに住む貧しい家族が、何も持たない親戚や知合いの避難民を受け入れて、懸命にその一時の苦境を支えあおうとしています。地雷除去の進む、戦闘地域だった村々に戻れる日を待ち望みながら。

 ジェンは、このように早期の帰郷を待ち望む避難民が、受け入れ先の家族と共に少しでも安心して安全に暮らせるような支援は何か、刻一刻と変化する最前線の支援ニーズに対応できるように、現在、調査の真っ最中です。

12月 3, 2009 北部緊急支援 |

2009年11月12日 (木)

【北部】北部の状況

091112_dsc00535  先月より、ワウニア県で避難していた人々の解放・帰還が進んでいます。一時、26万人を超えていたワウニア県内の避難民が、現在約15万人になりました。

 帰還は、スリランカ政府が主導で行っています。まずは、直接は戦闘地にならなかった場所への帰還が行われ、さらに北部のかつて反政府勢力が支配していた地域も、地雷除去が完了した場所から、徐々に帰還が許され始めたのです。

 ジェンは今年の6月より、避難民キャンプで給水活動を行ってきました。飲料水は命にかかわるものです。そのため、キャンプで暮らす人々がいる間、今後もしばらくのあいだは人道的観点から給水活動を継続しつつ、帰還・再定住を後押しするようなアプローチで支援を行っていきたいと思います。

11月 12, 2009 北部緊急支援 |

2009年10月22日 (木)

【北部】避難キャンプで生きる

091015_name_board_for_commhall  先日、給水活動のモニタリングのため避難民キャンプへ行ったときに、57歳の女性と出会いました。彼女は7人の子どもの母親で、避難前の生活や今の状況について話してくれました。

 「私は2009年4月19日にLTTE(反政府勢力)の支配から政府地域に逃げてきました。

政府地域に入る以前の私たちの生活は非常に厳しいものでした。戦闘のため自分たちの村を離れなければならず、そのうえ、避難先でも戦闘地域に囲まれていて支援の手が少なく、地雷の心配もありました。政府地域に入るには、この戦闘地域を越えなければいけませんでした。

政府地域に入ったあとで、ここ、ワウニア県の避難民キャンプに収容されました。ここでの生活では、食料や水、衣類などいろいろな支援が届いています。

しかし、まるで鳥小屋の中にいるようです。大きな有刺鉄線に囲われ、監視の目も厳しく、外に出る自由がありません。親戚に自由に会うこともできません。

ここには地雷におびえなくてもいい平和な生活がありますが、自由がないのです」
(ワウニア事務所フィールド・オフィサー)

10月 22, 2009 文化、生活、習慣北部緊急支援 |

2009年10月 1日 (木)

【北部】避難民キャンプで出会った子どもたち

090528_low  給水活動のモニタリングのため、ワウニア県の避難民キャンプを訪れたときに、7歳から9歳くらいのふたりの女の子がボール遊びをしているのを見かけました。ところが、彼女たちはうまくボールを拾ったり投げたりすることができません。なぜならひとりは片足がなく、もうひとりは右手の指がなかったからです。

 私はキャンプを訪れると、給水車のところへ水をとりに来たり、薪を集めたりする人々の顔や様子を観察します。あてもなくキャンプ内を歩き回っている人もいます。彼らが生活に満足を感じているのか、あるいは悲しいのか、私には推し量ることができません。

 私がボール遊びをしている子どもたちに近づいていくと、彼女たちは遊ぶのをやめて、私の方を見上げました。名前はデヌージャとプリヤといいました。

 片足を失ったデヌージャは、寡黙です。足は去年の終わりに失いました。そのときの経験―武器や戦争を思い出すことを嫌い、避けようとします。その代わりに、生まれ育った村の懐かしい風景や、飼っていたペットのことを思い出して過ごします。でも村やペットが、いまどうなってしまったのかはわかりません。彼女は、足だけではなく、未来への希望も失ってしまったのです。

 プリヤは、今年の初めごろに、右手の指を失いました。彼女は、指はまた生えてくると信じています。指がなくなってしまったことを大変なことだとは感じておらず、再びボール遊びに熱中し始めました。私は、何も言うことができませんでした。

(プラダバン、ワウニア事務所フィールド・オフィサー)

10月 1, 2009 北部緊急支援 |

2009年8月20日 (木)

みんなで支援

090820  6月にジャパン・プラットフォームや支援者のみなさまの協力で始まったワウニア県での避難民に対する緊急給水事業。乾季真っ只中の今、給水に必要な水をどこから確保するか、ワウニア県の水道局はいつも頭を悩ませています。

 飲料用の水は、川の水をろ過装置できれいにするか、既存の農業用井戸や新設井戸から取水して塩素消毒をして配られています。ジェンは水道局が指示する取水ポイントから避難民キャンプ内の給水ポイントまで水を運んでいるのです。

 1枚目の写真は取水専用の井戸です。水道局は避難民キャンプの周辺にある溜池の近くなどにこのような井戸を作っています。この井戸から電気ポンプで水をくみ上げて給水車に注いでいます。

2枚目の写真のおばあさんは、なんと、この電気ポンプのオペレーター。年齢は70歳。作業は、ポンプスイッチをつけたり消したりする作業なのですが、朝6時から夕方8時まで働いているそうです。この井戸のすぐそばに住んでいて、若干のお給料を水道局からもらっています。090820_2

 今回の緊急支援はこのように、スリランカ政府の水道局からキャンプ近くに住まうおばあさんまで、いろいろな人々がいろいろな形で連携しながら進められています。

8月 20, 2009 北部緊急支援 |

2009年8月18日 (火)

10分では伝えられない思い

  ワウニア県の避難民キャンプで働いていると、多くの悲しい現実に遭遇します。

  ある日、私は避難民キャンプで、キャンプの脇の通路を歩くひとりの妊婦さんに出会いました。話しかけると、彼女は泣きながら話してくれました。

  「この紛争では、たくさんの人々が爆撃で傷つきました。にもかかわらず、(戦闘が行われた北部には)病院や医療サービスがありませんでした。ここ(避難民キャンプ)にはそのような医療の問題はありませんが・・・、早く両親のいる家へ帰りたいです。両親は、栄養のある食事を用意してくれ、精神的にも支えてくれます。自分やこれから産まれてくる子どもは、そうした両親の支えを必要としています。

  両親は時々、目に涙を浮かべてキャンプの面会所へ私に会いに来ます。キャンプへの出入りを管理する警察は、面会を10分しか許してくれません。私たちの状況や思いを話し合うのに、それは十分な時間ではありません。

  両親と一緒に自分の家に住むことができる日が来ることを切望しています。」

  (スレーシュクマール、ワウニア事務所フィールド・オフィサー)

8月 18, 2009 北部緊急支援 |

2009年7月23日 (木)

避難民キャンプの様子

090528_low  ワウニアの避難民キャンプでの食事について、お話したいと思います。

 現在は、グループごとに調理をしています。訪問したコミュニティ・キッチンでは、5人の大人(避難民)が大鍋を使って夕食の準備をしているところでした。この日のメニューは、ピットゥという小麦粉とココナッツを使った蒸しパンのようなタミル料理です。援助機関から届けられる食糧や、JENなどが運ぶ飲料水を使って調理をします。このキッチンでは、300家族分(約1,100人)の食事を作っているとのことでした。

 支援に頼る生活の一方で、キャンプ内には野菜や雑貨、婦人子ども服などを売る商店が何軒もあります。また、移動式の銀行(!)もあり、家族や親せきからの送金を受け取ることのできる避難民もいます。キャンプ内で事業をモニタリングしている最中にも、移動式銀行の車両が営業中を知らせるアナウンスを流しながら通り過ぎていきました。

 JENは、避難民の人々が1日も早くもと住んでいた場所に戻り、生活を再建するための活動を続けていますが、一方で、時間の経過とともに、キャンプの中にはこのように恒久的な生活を営むための設備も見受けられるなど、実情は非常に複雑です。

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「母の日のブーケが野菜の種に」スマイルシーズ観察日記はこちら

7月 23, 2009 北部緊急支援 |