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2005年1月27日 (木)

被災地で感じる人々の人生

050127_01  コロンボから南部ハンバントタに向かう沿岸道路には、まだまだ津波の恐ろしさを物語る風景が続いています。破壊された建物が生々しく残り、その隙間にビニールテントや地面に刺した枝にビニールシートをかけただけの手製テントが建っています。

 イスラムの祝祭日にあたる21日は、本来ならお祝いが行われるはずでした。ハンバントッタはスリランカでは少数派のムスリムが多い地域ですが、「今年は祝う気分にはなれない」と避難所にいた人々が悲しそうに言っていました。

 ここのモスクは半分破壊されていましたが、人々は仮の建物で毎日5回、お祈りをしているそうです。この避難所はハンバントッタの海岸近くにあり、津波以前にその土地に住んでいた人々が、また同じ土地に住む、とテント生活を始めています。しかし彼らが同じ土地に引き続き住めるかどうかは、今後の政府の土地・住居再建政策にかかっており、その保証はありません。

 避難キャンプで、イラクでの出稼ぎから戻ってきたばかりという男性に会いました。バグダッドの米軍基地でドライバーとして働き、戻ってきたら津波で奥さんと子供、家を失ったとのこと。イラクで活動を続けるJENにとって、バグダッドで外国人が米軍と働くということの危険性は十分理解できます。苦労を重ねて家族の元にやっと帰ってきたのに、家族やせっかく貯めたお金で手に入れた家を失ってしまった... その心の傷の大きさは、想像するだけでも心が痛みます。被災者一人一人がそれぞれに異なる人生を背負って生きていることを改めて痛感し、今後きめ細かい支援が継続して行われる必要性を強く感じています。

1月 27, 2005 心のケア | | コメント (0)

2005年1月20日 (木)

意外な生活必需品、ココナッツ・スクレイパー

050120_02  現在、JENは南部ハンバントッタで生活必需品配布事業の準備を進めています。 この事業を準備するにあたり、「何が必要か?」と調査を行いました。その中には、私たちが始めて目にする日用品もあるそうです。それは、「ココナッツスクレイパー=ココナッツかき」です。

 スリランカはココナッツの生産量が多く、いたるところでココナッツの実を切ってそのままストローをさした形のココナッツ・ジュースが見られます。若い実はジュースに、熟したものは実を削ってたまねぎなどの野菜と調理して朝食や昼食時に食べる「ココナッツ・サンボル」に、絞るとカレーに不可欠なココナッツ・ミルクになるのです。まさに生活と深く結びついたココナッツ。実際どこに行っても、「ココナッツスクレイパーがほしい」との要望が強く、驚きました。

 ココナッツ・スクレーパーにはさまざまな種類があり、人々の住居環境によって愛用品が違うようです。都市の人はテーブルで調理、食事をするため、テーブルに固定してハンドルを回すタイプ。農村部で生活する人、テーブルを使わない人は、ベンチに座って、ベンチに取り付けココナッツを擦りつけて削るタイプ。中には5,000円近くもする電動タイプもあるそうです。050120_03

 あまりにも多くのものを失った人々が元の生活に戻るまでには時間がかかります。日常的に使う道具を提供するということだけでなく、毎日欠かさず使っていたものが「手を伸ばせば取れるところにある」安心感という意味でも、このココナッツスクレイパーは大切なのです。JENは、今後ココナッツスクレイパーを含めた、生活必需品の配布を行っていきます。

1月 20, 2005 支援物資配布 | | コメント (0)

2005年1月10日 (月)

日々変化する現地のニーズ

050109_01  自然災害などの緊急支援では、目の前にあるニーズがどんどん変化します。

 多くの団体が様々な支援とともに現地に駆けつけるからです。ニーズ調査で現地を訪れ、『今食糧がない!』と言われても、私たちが食糧の調達をするために現地を離れた後に、別の団体が食糧を持って訪れるかもしれません。ですから、これまでの経験に基づいて的確に予測した物資を調達した上で現地に入ること、どんどん変化するニーズに柔軟に応えること、そしてニーズを把握したらできる限り早く実施することが大変重要です。

 JENは、北部での緊急支援活動のパートナーのブリッジ エーシア ジャパン(BAJ)とともに、食糧(炊き出しとビスケットの配布)→水タンク→衣類→歯磨き粉と、どんどん変わるニーズに対応して、夫々の時点で最も必要とされるものを配布することができました。

 難しいのは、被害の規模が大きいこと。被害の規模が大きいと調達しなければならない物資の量も多くなり、簡単には調達できません。先日も長靴500足を調達しようとした団体が、数十足ずつ何軒もの店からやっと購入できたと言っていました。

 これから、南部ハンバントッタでの生活必需品配布事業を始めるに当たり、調達で走り回る日々が始まります。これも随時ご報告させて頂きます。

※12月30日の号外メルマガで、ムラティブで世界食糧計画(WFP)が全面的に食糧支援を行うため、JENが予定していた食糧配布を衣類配布に変更します、とお伝えしましたが、JENはムラティブで炊き出しとビスケット配布をWFPの食糧支援の前に実施いたしました。現地との連絡状況が悪く、正しい活動内容をお伝えできなかったことをお詫び申し上げます。   

1月 10, 2005 緊急支援 | | コメント (0)

2005年1月 9日 (日)

6メートルの波

050109_02  1月8日、スリランカより事務局長・木山が帰国しました。国際スタッフ・村崎由紀子はコロンボにとどまり、今後も支援活動を続けていきます。

 日本のNGOブリッジ エーシア ジャパン(BAJ)の案内で、被害状況とニーズの調査のため、衣類配布を行った北東部ムラティブへ行きました。

 大学を一時的に使っているという大きな避難所では、コンクリートの床に小さな布を敷いて、人々が寝ころんだり座ったりしていました。ざっと30平米くらいしかないような小さな教室それぞれに14~5人以上の人がいて、随分窮屈そうでした。

 キャンプでお話を聞いた男性(20)は、早朝にドーンと大きな爆発音のようなものを聞いて逃げようとしたとき、既に高さ6メートルもの波が襲いかかってきたと言っていました。波で母親が倒れたところまでは見たけれど、その後気を失ってしまったので、何も覚えていないとのことでした。3日後の29日に、約100キロ離れたワウニア(Vavuniya)という大きな町の病院のベッドの上で目が覚め、家族全員が行方不明ということを聞いたそうです。また、着ていた服はすべて波でさらわれ、発見されたときは何も身に付けていない裸の状態だったそうです。本人は怪我をしただけでしたが、怪我が治っても、今後何をしていけばよいのかわからない、とのことでした。

 北部でも南部でも、10日には学校が始まるので、避難所の人々を他所に移す話をしていました。しかし移る先がないので、仮設住宅の建設が急務となっています。
 仮設住宅に移っても家の中にはなにもないので、生活の為に日用品が必要になります。JENは南部ハンバントッタで生活必需品の配布を予定していており、また北部での支援も調整中です。

1月 9, 2005 緊急支援 | | コメント (0)

2005年1月 7日 (金)

ゴミ箱をひっくり返したような町

050107_02  インドネシアのスマトラ島沖で12月26日朝に発生した地震・津波被害を受けて、JENはスリランカで緊急支援活動を行っています。1月2、3日には、事務局長・木山啓子と国際スタッフ・村崎由紀子が、被害状況とニーズについて情報収集を行うため、スリランカでも特に被害が大きかったと言われる南部ハンバントタ(Hambantota)を訪れました。

 「1月2日復旧したコロンボからハンバントタへの海岸沿いの道路を車で7時間かけて移動しました。 これまでJENの活動で旧ユーゴスラビア、イラクなど紛争地や災害地をいくつも訪れましたが、ハンバントタには、かつて見たことのない惨状が広がっていました。倒れた木々、二つに折れたバス、レンガの家々は崩壊し、崩壊したレンガのがれきにからみつくビニールや衣類など・・・まるで町じゅうごみ箱をひっくり返したような光景でした。 こうした光景は、スリランカの一部の海岸沿いを除いて全域で、延々と続いており、現在、国をあげて急ピッチでごみの撤去作業が行われています。この撤去作業が終わらなければ本格的な復興支援を開始できません。

 ハンバントッタでは避難所を回り、被災された方々から話を聞きました。『家、家財道具、魚をとる網、ボートすべてを津波によって失ってしまった。』、という漁師の男性は、8人家族のうち6人を今回の災害で失ったといいます。まだ死臭がただよう中でこのような生の声を聞いて、緊急物資の支援だけではなく、心のケアを含めた復興支援が必要であることを強く感じました。」

 1月6日は、衣類の配布を行った北東部ムラティブ(Mullaittivu)へ向かいます。

1月 7, 2005 緊急支援 | | コメント (0)

2005年1月 6日 (木)

新潟震災被災者からスリランカへ

050106  新潟県川口町田麦山地区の、昨年10月の地震で被災された方々が、スマトラ島沖地震の被災者支援のために募金を集めてくださっています。その募金が1月6日現在で30万円を超えました。募金の呼びかけは、1月10日まで引き続き行われます。JENは田麦山の皆さまからの募金で、北部・キリノッチ(Kilinochchi)で支援活動を行いました。

 現在、国際援助団体の支援が開始され支援物資が届きはじめているものの、足りないものがまだまだ多く、被災者の方々は不自由な生活を強いられています。JENは、避難所の人たちからの要望が一番高かった生活必需品(歯磨き粉)を現地で購入し、約3,500人の被災された方々に配布しました。

 新潟県中越地震で被災され、いまだ不自由な生活を余儀なくされている方々からの力強くあたたかい支援が、スリランカの人々に届きました。 心から感謝を申し上げます。

1月 6, 2005 支援物資配布 | | コメント (0)

2005年1月 2日 (日)

全てを失って・・・

murasaki  12月30日よりスリランカ入りしている事務局長・木山啓子と国際スタッフ・村崎由紀子からの第一報が届きました。

 『1月1日午前4時、スリランカ北東部トリンコマリの海岸にあるムトゥールに向けて出発 しました。コロンボから4時間で現地に到着するという話だったので日帰りで予定を立て ていたのですが、道が悪く、結局片道8時間かかり、コロンボに戻ったのは夜中の12時過 ぎになってしまいました。

 ムトゥールではすでに305体の遺体を火葬後、埋葬しており、まだ行方がわからない45人 の住民を捜索中でした。前日の雨のおかげで死臭はだいぶおさまっていましたが、まだ においが強い場所もありました。湖のように海水がたまった所には、水が引かないの で、遺体があるのがわかっていながら、遺体を引き上げることができない、という話で した。

  浜辺では、35歳のモハマッド・ラフィーさんが2歳の息子を失ったときの様子を聞かせ てくれました。モハマッドさんは漁師なので、津波についての知識があり、海水が浜辺 から沖まで引いたときにすぐに逃げようとしたそうです。しかし、走る速さより、 波の方が速かったため、息子を抱きかかえて逃げましたが、あっという間に波が胸まで 上がってきて、足をすくわれ倒れてしまい、息子を波にさらわれてしまった。そして、波が家に押し寄せた時、窓やドアから入った水は、洗濯機のよ うに渦を巻き、家の中の物をすべて持ち去ってしまったので、着る物も何もかも失ってしまったそうです。今、着ている物も、全部寄付でもらった物とのこと。050107_01

 悲しい話を、厳しい顔でたんたんと語るモハマッドさんの表情が、胸を打ちました。 これほど多くの人命と生活を一瞬にして飲み込んだとは思えないような穏やかな海を 前に、浜辺でモハマッドさんと話をしていると、大勢の人々が集まってきて、口々に 津波に襲われたときの状況を話してくれました。それはまるで、言葉と一緒に恐怖と 悲しみをはきだそうとしているかのようでした。緊急物資の支援は当然急務ですが、 心のケアも急務だと痛感しました。

 1月2日は、特に被害が大きかったといわれる南部ハンバントッタに 向かいます。』

1月 2, 2005 緊急支援 | | コメント (0)