2008年5月 1日 (木)
この国の可能性
こんにちは、プログラムオフィサーの山形太郎です。
現事業のフォローアップと新規事業立ち上げのため、5か月振りにアフガニスタンに戻ってきました。カブール事務所に到着して最初に気づいたことは、現地スタッフが老けて見えたということです。
昨年の10月からの遠隔管理体制。当初は6年以上国際スタッフ中心に動いてきた体制を、2ヶ月間という短い期間で遠隔管理することに大きな不安を感じていました。しかし、今回彼らに会って思ったことは、彼らの方にこそもっと大きな不安と苦労があったのではないかということです。
当初、彼らの仕事能力で、しかもたった2ヶ月間での遠隔操作体制設立は不可能だと思っていました。しかし、彼らの期待以上の頑張りと成長には感動さえ覚え、彼らの増えた白髪としわの数には、より頼りになる風貌さえ感じさせられました。
現在、アフガニスタンは治安の悪化、政府の汚職、破綻国家への道を進んでいるなど、悲観的に言われています。しかし、将来、国を背負っていく彼らの成長こそがこの国の未来の可能性ではないのでしょうか。
5月 1, 2008 事務所・スタッフ | Permalink
2008年3月19日 (水)
現場の感覚
パキスタンからの遠隔管理体制を開始してから5か月目に入りました。
そんな中、一番焦りを感じるのは、現場感覚が日々薄れていくのではないか、という点です。例えば、アフガニスタンに居た時は、スタッフたちと長い時間を共に過ごしていたため、私自身も穴の開いた服やほつれたスカーフをそのまま着ていました。というのも、みなとても質素な暮らしをしているからです。
一方、イスラマバードでは、女性は華やかで鮮やかなショールや服で着飾って街を闊歩しています。男性スタッフも毎日おしゃれを楽しんでいるため、さすがに穴のあいた服ではまずいと、こちらで何着か購入しました。
ほんのちょっとの違いですが、それが積み重なっていくことで、現場にいるナショナルスタッフの苦労や悩みなどを把握できなくなること、意思疎通に大きなずれが出てくるのではないかという点に、焦りを感じています。
今は、ほぼ毎日メールやチャットや電話で連絡を取ることしかできませんが、今できる方法で前に進めるよう努力しているところです。
(写真:事務所スタッフ一同、2007年8月撮影)
3月 19, 2008 事務所・スタッフ | Permalink
2008年1月24日 (木)
遠隔管理の良し悪し
先日お伝えした遠隔地からの事業管理体制に移行して、すでに3ヶ月が経過しました。日本人同士でも、メールや電話のみのやり取りだと誤解が生じることはよくあります。それが国籍もバックグラウンドも異なるアフガニスタン人との間では、なかなか話が通じないこともしばしば。顔を突き合わせて話せば5分で済むような仕事も、1-2日かかってしまったりするのです。
苦労の絶えない遠隔管理ですが、嬉しい変化もありました。それはスタッフの変化。これまで「指示待ち族」だったスタッフが、自分で問題解決するようになってきたのです。もちろん一朝一夕には変わるものでもありませんが、自分たちの国の発展は自分たちで担う、ジェンはそれを側面支援するだけ、という大きな目標に大きく一歩近付くような変化が生じています。(写真:事務所で育てられていた鉢植え)
1月 24, 2008 事務所・スタッフ | Permalink
2008年1月10日 (木)
年末年始は休みなし!
明けましておめでとうございます。
アフガニスタンではキリスト歴ではなく、イスラム暦を使っているため、年末年始の休みは関係なく、外務省、個人の方、団体の皆様のご支援のもと行われている学校建設を続けていました。
しかし、アフガニスタンの冬は厳しく、寒さと雪で工事の進みが中々スムーズにいきません。
現在、気温が、日中でも2℃から5℃ぐらいまでしか上がらず、夜はマイナス15℃までに冷え込みます。しかも、1月に入ってからすぐに大雪が降り、1週間余り工事が滞ってしまいました。
しかし、スタッフ一同、子どもたちが通学を開始する春に、とびっきりの笑顔が見たいという思いは同じで、寒さに負けず頑張ります!
1月 10, 2008 事務所・スタッフ | Permalink
2007年12月20日 (木)
カブールの冬支度:大活躍のブハリ
初冬のカブール、昼は20℃前後ですが、夜は1-2℃まで下がるようになってきたようです。
ジェンのオフィスでは、「ブハリ」と呼ばれる薪ストーブを使っていて、この季節になると倉庫からブハリをひっぱり出してセットしたり、薪を買って倉庫に常備したりと大忙し。
薪に火をつけるのもコツがあるようで、私の場合は、大量の新聞紙を使わないと火が薪に移らないのですが、ナショナルスタッフの中には、少しの新聞紙ですぐに火をけられるブハリ名人(?)もいます。
昨年は気温がマイナス20℃まで下がる等、非常に寒さの厳しいカブールの冬。それでも、ブハリの上でナンにチーズやチョコレーを溶かしたものをトッピングして食べるなど、ちょっとした楽しみもあるのです。
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12月 20, 2007 事務所・スタッフ | Permalink
2007年8月 9日 (木)
誇り高き人びと
この国に来て誰もが気づくのは、アフガニスタンの人たちは誇り高く、人前で恥を掻かせられることを極度に嫌うということです。
これらはJEN事務所で働くスタッフマネジメントにおいて最も気を配らなければならない点のひとつであり、同時に仕事の動機付けには欠かせない要素となっています。
JENで働くドライバーを対象としたセキュリティーワークショップを行なったとき、「武装集団に捕らわれたときは、抵抗しないであちら側の支持に従うように」と言うと、
「アフガニスタンの男にとってこれ以上の屈辱はない」と聞かされ、驚きました。
長い歴史の中で、アフガニスタンが外敵に屈したことはありません。
絶え間ない戦乱や貧困の中でも、個人や家族、国家としての尊厳は失われなかったように感じられます。
このドライバーの言葉には、ちょうど戦国時代を生き抜いた武士のような印象を受けました。
地政学上、重要な地域であるアフガニスタンは、常に大国の干渉を受け続けてきました。
約25年にわたって続いてきた内戦や、現在の状況も含めて、こうした外部的要因が民族、宗教、政治などの内部的な要素に火種をつけて起こったことは否定できません。
このアフガニスタンの人たちの誇り高き精神が民族、宗教間を越えて互いに協力していくことが、復興に欠かせない要素です。
地元の人たちから見れば「外から来た人」である私たちは、押し付けや干渉ではなく、復興を真に願い、ともに歩む姿勢を忘れてはならないと感じます。
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写真:JENアフガニスタン事務所で働く仲間たち
8月 9, 2007 事務所・スタッフ, 文化、生活、習慣 | Permalink
2007年7月19日 (木)
安全な水を届けたい、その4
2006年8月から約1年。パルワン州で実施してきた水供給事業が完了しました。
ひとつとして予定通りに進まないことが多いフィールドで、地元の人たちと施設完成の喜びを分かち合えることが一番の喜びです。
JENカブール事務所長のブログ『雲外蒼天』で、この水事業を振り返る記事を掲載しています
⇒JEN事務所長のブログを読む
また、アサヒコムの連載『国際支援の現場から』でも、水事業の報告を掲載中。
ブログよりも写真がたくさん紹介されているので、是非ご覧ください!
⇒JEN連載 アサヒコム『国際支援の現場から』 JENアフガニスタン「いのちをつなぐ水」
夏休みに部屋の片づけをしてみませんか?本やCDのリサイクルが、アフガニスタンの教育支援に役立てられます!
JENのBOOK MAGIC(ブック・マジック)について、くわしくはこちら⇒ BOOK MAGIC
7月 19, 2007 パルワン州「住宅、水、教育」総合支援事業, 事務所・スタッフ, 水事業 | Permalink
2007年6月28日 (木)
カブールでの自爆テロ
皆さんこんにちは。JENカブール事務所長の柴田哲子です。
セキュリティマネジメント研修を受け、アフガニスタンに戻ってきたその日に、カブールで大規模な自爆テロが起きました。
2001年のタリバン政権崩壊以降、カブールで起きた自爆テロとしては最大規模の被害者数だったとのことです。
被害に遭われた方々のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。
そしてとても多くの方々から、安否確認や行動アドバイスのご連絡を頂きました。
ご心配頂いた皆様、気にかけてくださった皆様、本当にどうもありがとうございました。
おかげさまで、ジェンのスタッフはみな無事でした。
このような事件が起きた時に懸念されること。
それは、人びとの平和に対する確信が揺らいでしまうのではないか、という懸念です。
25年以上も紛争を続けてきた国、そして今も一部の地域で戦闘状態が続いている国に暮らす人びとが、平和の訪れを確信できるようになるには、危険を感じずに過ごすことのできる安定した状態が一日でも長く継続することが最も重要です。
しかしながら、このように民間人を巻き込むようなテロが頻発するようになると、平和の訪れを感じることは益々難しくなることは明らかです。
加えて、2001年のタリバン政権崩壊以降、国の安定を信じ、大量の難民や国内避難民が大挙して故郷に戻ってきました。
しかしながら、戻ってきた故郷の状態は決してバラ色ではなく、家は壊れ、基礎的なインフラストラクチャーも大幅に欠如し、仕事も無く・・・、というような状況。そのような中、ようやく国の再建が始まりました。
2002年以降は、国際社会から大量の支援が入ってきましたが、25年の紛争により形作られた様々な空白は、5年程度の支援では到底埋められるものではなく、今後も、息の長い支援が必要です。
しかしながら、少しでも治安上の懸念が生じると、国際社会からの支援の継続にも大きなマイナス要因になります。それが新たな社会の不安定要因になっていくという悪循環は、容易に想像ができます。
アフガニスタンは、度重なる紛争に苦しんでいる時も、大干ばつで多くの人が故郷を追われた時も、国際社会からは長らく見捨てられた国でした。そのような国にようやく国際社会の目が向けられたのは、2001年の9.11同時多発テロがきっかけでした。
アフガニスタンがまた再び忘れ去られた国に舞い戻るようなことがないよう、国際社会による支援の一部を担っている私たちは、安全を十分に確保しつつ、活動を続けていくことが最も重要だと思っています。
もちろん、テロの発生を正確に予測することは不可能ですが、情報ソースを確立し、取りうる限りの対策を取って行動していきたいと思います。
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6月 28, 2007 事務所・スタッフ | Permalink
2007年4月19日 (木)
アフガニスタンの食べ物
皆さんこんにちは。アフガニスタン事務所長の柴田哲子です。
今日は、アフガニスタンの食事についてご紹介したいと思います。
JENでは、朝食と昼食は国際スタッフも現地スタッフも一緒に食べています。
床にロの字型に座って、真ん中にビニールシートのようなものをひろげ、その上に食事を並べます。
朝食はナン(薄型のパン)と砂糖をたっぷり入れた緑茶です。
赴任当初は、緑茶に砂糖という組み合わせにびっくりしたのですが、これが慣れるとなんとも美味しくて、いつも大匙1杯(!)の砂糖を入れて飲んでいます。
現地スタッフには大匙2杯派が多いようです。。。ちょっと心配。
昼食は、コックさんによるアフガン料理。一番多い組み合わせは、
・パラオ(細かく刻んだにんにくや玉ねぎなどの香味野菜を入れて「たっぷりの」油で炊き込んだピラフのようなもの)
・豆の煮物(小豆のような豆を圧力鍋で煮込んだものでシチューのような見た目と味)
・生野菜(ラディッシュ、小ねぎ、トマト、青唐辛子など)です。
みな、激辛の生青唐辛子をぽりぽりかじりながら、パラオに煮物をかけてカレーのようにして食べています。
たまに料理好きの運転手さんが、トルシーと呼ばれる漬物を作って持ってきてくれます。中身は、茄子、トマト、青唐辛子、たまねぎ等など。
このトルシーは、味は日本の糠漬けにとても似ているのですが、一般的にはインド料理でお口直しにでてくるチャツネとよく似ています。
そのほかにも美味しいアフガン料理がたくさんありますので、また折を見てご紹介させて頂きますね。
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4月 19, 2007 事務所・スタッフ, 文化、生活、習慣 | Permalink
2006年12月21日 (木)
素顔のアフガニスタン、その2
首都カブールでも、破壊された建物の残骸や銃弾の跡の残る建物を数多く目にします。
労働者市場のような場所では、凍てつく寒さの中、仕事を求め毎日早朝から100人以上の老若男性が集っています。また、道路の真ん中で所在無げにしゃがみこみ、物乞いをするブルカをまとった女性たちの姿を目にすることもあります。そして、羊飼いとともにカブールにやってきた羊たちは、ごみ置き場に群がり餌を漁っています。
こんな、何気ないカブールの日常に、「どこから手を付けようか?」という思いでいっぱいになります。しかし、私たちJENにできることは、本当に限られています。だからこそ、大海の一滴でも良いので、いま与えられているこの立場でできることを前に進めたいと思います。そして、JENと関わりを持つことになった人たちが、少しでも明日への希望を持てるよう、ひとつひとつ着実に仕事をしていきたいと思っています。
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12月 21, 2006 事務所・スタッフ, 文化、生活、習慣 | Permalink
2006年12月 7日 (木)
素顔のアフガニスタン、その1
カブール事務所長の柴田哲子です。
赴任してひと月半が過ぎましたが、幸いにも今のところ想像していたような「身に迫る危険」を感じたことはありません。
しかしながら、やはり数十年にわたって戦争し続けてきた国だけあって、あらゆるものが破壊されているか、または存在しません。たとえば、先日視察したチャリカの学校では、天井と敷地にロケット弾を被弾した大きな穴が空いていました。
私自身これまでに中央アジア、コーカサス、中東、東南アジア、南西アジア、南米等々を訪れてきましたが、鉄道が無い国は、ここアフガニスタンが初めて、日々新しい経験を積んでいます。
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12月 7, 2006 事務所・スタッフ, 文化、生活、習慣 | Permalink
2006年11月22日 (水)
カブール到着!
JENカブール事務所長の柴田哲子です。約3週間前にアフガニスタンの首都カブールに到着しました。
アフガニスタン事務所は、JENの海外事務所の中では最大の事務所です。着任後、すべてのスタッフ30名程度を一度に目の前にする機会があり、若干(相当?)圧倒されてしまいました・・・(笑)。が、無理せず自然体でがんばっていきたいと思っています。
ところで、例えば「30名」という言葉、口にするとそれ以上でもそれ以下でもありませんが、実態を伴って目の前に現れると、また異なった印象に感じられ、そして自分の中でこれまでとは違った場所に落ち着いたりすることがあります。私がアフガニスタンにきた理由のひとつとして、「貧困」とか「平和構築」とか「紛争」とかいった、この業界で語られる様々な言葉に、自分の中で実体を伴わせたかった、ということがあります。
そんなことを考えながらやってきたアフガニスタン。アフガニスタンでの生活、その中で考えたこと、JENの活動等々について、これから少しずつ、みなさんにお伝えしていきたいと思っています。
(筆者は後列右から二番目。真ん中が、前カブール事務所長の玉利です)
11月 22, 2006 事務所・スタッフ, 文化、生活、習慣 | Permalink
2006年9月21日 (木)
カブール事務所スタッフ紹介
JENのサポーターから始まり、インターン、アルバイト、そしてスタッフ(東京本部事務局勤務)、JENと様々な形で関わりJENをこよなく愛して病まない経理・総務担当の若野スタッフ。現地の人々を思う気持ちや、いただいた寄付金を有効に活用しようとする姿勢が随所に現れています。
東京本部事務局では女性が圧倒的に幅を利かせているJENですが、ここカブール事務所は男所帯。ローカルスタッフも27名中女性は4人だけ。そんな中、自国の女性に気軽に話しかけられないことも手伝って、アフガン男性スタッフからはモテモテです。たまに花束などを貰ったりしてまんざらでもない様子。
業務は経理並びに総務関係なので、数字とのにらめっこや、物価があってないような社会での物品購入などストレスが溜まりがちです。でもその発散の一つ?!として、ありがたいことに料理に凝り、日々腕を磨います。
女性にとっては何かと不便なアフガニスタンでの生活ですが、カブール事務所のため、アフガニスタンの人々のため日々奮闘している若野スタッフです。
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9月 21, 2006 事務所・スタッフ | Permalink
2004年4月26日 (月)
雪かきと支援の関係(駐在員椎名カブール日記)
先日、カブールに30cmほど雪が積もり、一面の雪景色になった。カブールから見える山々もすっぽり雪に覆われ、神々しく輝いている。
綺麗なものだなあと眺めているのもつかの間、現地スタッフから「雪かき」の話が持ち上がった。スタッフが駐在している建物の屋根はアフガンでは伝統的な、泥でカバーしているタイプで、雪かきをしないと後で雨漏りすると言う。そこでスタッフが一言。「シイナ、雪かき用のスコップを買わないと。」私は内心またかと思う。さて、議論開始。
「スコップが事務所にあるじゃないか。」「今あるスコップじゃあ、屋根に傷がついてしまう。先端が木で出来た、雪かき用が必要だ。」「今あるものじゃあ、何とかならないの?」スタッフは困った顔をして首を振る。買っても5ドルするかしないかであろうか。でも、今日以外使う機会は殆どないだろう。お金がもったいない。何とかならないか?私は台所をうろうろする。ほら、見つけた。
私がスタッフに高々と見せたのは、プラスチック製のお盆。これなら屋根に傷がつかないし、軽い。しかも一度にたくさん雪かきが出来る。スタッフはあきれたようなそぶりを見せ、大げさに腰を曲げ、首を振る。「それじゃあ、腰が痛くて大変だ。スコップを買ってくれよ。」やれやれ。私はスタッフが制止するのを無視して屋根に上がる。スタッフもいやいや屋根に上がった。私がお盆を使って雪かきを始めると、スタッフものろのろとお盆を使い始めた。
背中を丸めて雪かきをしながら、私の頭に東京本部事務局でアフガン担当デスクをしていた時の事がよみがえる。支援者の方々にご理解を頂き、500円のご寄付を頂くのがいかに大変か。昨今世間の関心が薄くなったアフガン支援のため、東京本部事務局の同僚が深夜まで働き、どんなに大変な思いをして活動資金を集めてくれているか。お金を使うのは簡単だ。たかが500円という人もいるだろう。でも、それは間違いだ。NGO活動での資金の重みを、私は東京で学ばせていただいた。出来れば事業に1円でも多く使いたい。でないと私は支援者の方々や同僚に顔向けが出来ない。
30分ほど作業をすると、雪かきも終わりが見えてきた。雪かきが楽しくなりはじめ、私は下にいたスタッフにカメラを持ってくるように頼む。記念写真を撮る頃には嫌がっていたスタッフの顔にも笑顔が浮かんでいる。私はこの雪かきが支援活動と似ていると気がつく。
国際NGOが村にくると、村人達の多くは生活がとても苦しい事を切々と訴える。支援内容を説明すると「それでは全然足りない」という村人もいる。話の端々に国際NGOはお金を持っているものだという彼らの意識が見え隠れすることがある。それは事務所で働く現地スタッフも同じ。「お金がない」と言って隣人の住宅再建への協力を渋る村人に、お金のかからない方法を提案するだけでなく、ジェンがやって見せて初めて村人は動いてくれることがある。言うだけでは駄目。自分でやって見せないと。先ずはジェン事務所内部から。
残りの雪かきをスタッフに任せ、デスクに戻ってくると自分の手が細かく震えている。腰が重い。お茶を飲んで一息入れイスに座ったとき、私はふと、スタッフが最後に笑っていたのは雪かきや写真が楽しかったのではなくて、私に雪かきをまんまと手伝わせることが出来たからではないかと思い当たった。道理でスタッフがニコニコしていた筈だ。
現地の人々は、いつも私の考えの一つ上をいっているのかも。私はまだ甘い。
4月 26, 2004 事務所・スタッフ | Permalink
2004年3月26日 (金)
終わりは始まり(駐在員椎名カブール日記)
ショマリ平原では最近、草原やブドウ畑の中に赤や白、ピンクといった花が咲き出した。平原の春を知らせる野生のチューリップである。平原に咲くこの花はこれから夏にかけてたくさん咲き乱れるようになり、草原の緑と相まってさながら春の絨毯である。アフガニスタンで働きだして初めてこの光景を目にしたとき、その美しさに写真を撮る事も忘れただ呆然と見とれるばかりだったのを思い出す。
私の退職を発表したとき、現地スタッフは口々に私に不満を申し立て、「シイナが辞めるなら俺も辞める」などと物騒な事を言い始めた。しかしアフガニスタンでは、それが職場を去るものへの一種の社交辞令、はなむけの言葉だと知っていた私には、何かほほえましくもあり、正直少し嬉しくもあった。気がつけばアフガニスタンで働き始めて1年半の歳月が経っていた。
アフガニスタンに赴任したての頃は、ただ何もかもが珍しく、ただ必死に現場に出てアフガンの砂塵に吹かれていた。現地の言葉を少しだけ覚え、人々と簡単な会話が出来るようになると、私は村の人々の素朴な優しさに惹かれるようになった。畑で取れたブドウを食べながら、またはアフガン版のコタツである「サンダリ」に入りながらお茶を飲み、村人と彼らの生活についてあれこれ話を聞かせてもらいながら、私は彼らの世界を垣間見させていただいた。
私は村人の「手」が大好きである。多くの場合それはざらつき、ひび割れ、くしゃくしゃにした新聞紙のようであったが、私の目の前で幾つもの「手品」を見せてくれた。器用に斧を使って節くれだった薪を割る「手」、小麦粉から生地を作ってアフガン版の餃子であるマントゥを作る「手」、パラパラしたご飯を手のひらでまとめ、親指で押し出すようにして口に放り入れる「手」…。それらの「手」は私にない、生活を掴み取る「手」であった。私は何度も試してみたが、時間ばかりかかっていっこうに上達しなかった。アフガニスタンで人々の生活に触れていると、「本当の豊かさとは何か」などといった、かしこまった事を考えなくても、こんな世界、生活が世の中にはあったのだという新鮮な驚きと、私達人間のたくましさの底を覗かせてくれる。ブドウは甘く、水は濁っている。
武装解除、経済の復興、国際支援中心の国家体制からの脱却。アフガニスタンの行手には、まだ越えなくてはいけないハードルが幾つもそびえていることは確かである。この国は1年半の間に良くなったのであろうか、それとも悪くなったのであろうか。私がやってきたことは、果たして本当に人々のためになったのであろうか。私は車窓を流れるカブールの町並みをながめながら、ぼんやりと答えを探し始める。今までに何度となく繰り返してきた問いである。一つだけ確かな事がある。私は、一緒に仕事をしてきたスタッフや受益者に励まされてここまでやってきたということであり、受益者の人々とともに活動をしてきたという自負である。それはジェンのようなNGOがもっとも得意とし、今後も続けていくと確信できる支援の形でもある。
これからの季節、北へ伸びるチャリカへの道の脇には、折角咲いたチューリップを幾つも摘んで束にし、ドライバーに差し出して売り歩く子ども達の数が多くなってくる。たくましいと思うし、私が止める筋合いもないのだが、地雷原の中を花を摘んで歩く子ども達がいるかと思うと不安になる。個人的には、綺麗な花は摘んでしまうのではなくそっとしておいてあげたい。野生の花は、自然に咲いているその場でこそ最も美しいと思うからである。アフガニスタンの復興に国際的な支援がこれからも必要な事は私も強く感じる。しかしそれは、莫大な支援金のみではなくアフガン人の視点を忘れずにこれからも続けていくべきであることは、支援活動に関わる人間が多かれ少なかれ思っている事ではないかと思う。この国はいうまでもなく、アフガン人のものである。「アフガンのクジラ」から「パートナー」へ。その道は一筋縄ではない。でも、その一つの形を具現しているのがジェンではないかと思う。その取り組みを私のこの日記を通じて少しでも読者の方に知っていただけたとしたら幸いである。
個人的なことで恐縮であるが、私はこれからも今までとは違った形でアフガニスタンへの支援活動に関わる予定である。私はジェンを離れるが、これからも1サポーターとしてジェンの支援活動を応援したいと考えている。実際に活動していた私が言うのだから、どうかジェンにこれからも皆さんの力をお貸しいただきたい(笑)。私の日記を読んでくださった皆さんに対する感謝の気持ちは私の筆では表しきれない。アフガニスタンの事を忘れずに、これからもこの国とジェンの取り組みを見守っていただきたい。
3月 26, 2004 事務所・スタッフ | Permalink
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2003年10月 9日 (木)
ナハリンへの道2(駐在員椎名カブール日記)
アフガニスタンで仕事をしていて何が一番怖いかと聞かれると、私は迷うことなく「交通事故」と答える。地雷を踏まない保障はないし、カラシニコフ銃は珍しくも何ともない。爆弾テロの噂はいつもあるし、強盗などの一般犯罪は日常茶飯事の感がある。けれど、交通事故にはかなわない。その恐怖は影のように私にまとわりつき、不謹慎だとは分かっていても、ふと気がつくと私の頭は想像をし始める。即死ならかまわない。でも奇妙にひしゃげたあの鉄塊のなかで、自分の死をゆっくり感じながら死ぬのは耐えられない。この国で何度となく見た事故の光景の中に、私は自分の影を見る気がして目をそむける。私の車は同伴車との間隔を確かめつつ、私の心を引きずりながら走り続ける。
山の陰に回りこむ幾つものカーブには、カーブミラーなどといった便利なものは無い。手前でクラクションを鳴らし、恐る恐る車の鼻を入れてみると、陰から急に対向車が砂埃を巻き上げて飛び出してくる。急ブレーキ。煙幕のような砂埃が後ろから車を包み込む。日本ではスクラップ工場でもお目にかかれないような「骨とう品」がきしみながらカーブを滑る。鼻先が私の席のドアをかすめる。私の背中を、べたつく嫌な汗がゆっくりと降りてゆく。この山道ではガソリンや木材を満載した大型トラックが鉢合わせして通り抜けできず、お互いにエンジンを切って道を譲るのを拒んでしまう。後ろから他の車が考えもせずに車間距離を詰め、大渋滞が起こるのである。この状態は今のアフガニスタンを現しているかもしれないという考えが、私の頭をよぎることがある。無法、汚職、談合、贈収賄。みんながみんな今の自分の利益を求めて手段を選ばず走っているけれど、それではこの国が国として機能していかないことは明らかだ。この国の政治や経済が行きづまったとき、それを打開するのは先を見通した相互利益という考え方ではないのだろうか。何も難しい話ではない。日本ではこんな時、道を譲り合って自然と交互に車は狭い道を通り抜けるという、あの知恵であり、システムである。私のコンボイが3時間以上も足止めを食っている間、ドライバー達は口々に何かを叫び合いながら、道を行ったりきたりしていたが、そのうち一方が折れて車列を後ろに戻し、その断崖と小川にはさまれた道を通り抜けた。今夜宿泊する村に着いたとき、時刻は深夜を回っていた。
しかしひとたび車窓から外を眺めれば、この土地は自然が織り成す美しさであふれている。ポプラの若木が風にそよぎ、木漏れ日が私に降り注ぐ。黄金に輝く小麦畑の中で、女性が背中を丸めて刈入れをしている。子ども達が牛を追い、男達が薪を背負って帰路を急ぐ。小川の上を滑ってきた風が車内を一瞬清めて去っていき、遠くにパルテノン神殿を思わせる岩肌を見せた山が神々しく鎮座して私を見下ろす。小川を渡り林を抜け、小さな村落を幾つも通り抜けていく間に、私は自分がだんだんこの風土の一部になっていく感じがする。休憩時間に車を降り、思いっきり背伸びをして深呼吸をすると、その空気は私の肺を通じて体の隅々まで行き渡り、指の先まで充実した気分になる。太陽の光が頭の先から降りてきて、足元から地面に染み込んでいく。自分が自然の一部だと感じる瞬間である。この土地は美しい。そして、自然は私の想像を越えたところで互いに結びつき、全てを包み込む。戦車の残骸ですら、いつの間にか地面に溶けかかり始めている。気がつくと私の心が少しだけ軽くなっている。
明日はやっとナハリンである。
10月 9, 2003 事務所・スタッフ | Permalink
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2003年10月 2日 (木)
ナハリンへの道1(駐在員椎名カブール日記)
ナハリンへ出発する前日は、いつも何か真っ暗なトンネルに入っていく気持ちがする。治安状況は確認した。車両も無線もチェックした。水も充分に積んだし、スペアタイアもある。やらなければならないことはリストアップしたし、ナハリンに着けば村人が歓迎してくれるだろうと感じてもいる。でも駄目なのである。「メロン幾つ買ってこようかな。」などと現地スタッフと無駄口をたたいて気分を紛らわせようとしても無駄である。それはじわじわと足元から這い登り、胸を締め上げる。私は静かに深呼吸する。頭を振る。
ナハリンは昨年、大地震により大きな被害を受けたアフガン北部、バグラン州の田舎である。倒壊した家屋に押しつぶされて多くの人が亡くなったこの地域で、ジェンは募金によって集められた資金を使って井戸掘削事業を行なっている。私はこの事業を計画、実施、監督しているのである。北に抜けるサラン峠のトンネルが修復工事で通行止めのため、通常8時間半で行けるところを、今は砂埃と砂利の道を17時間以上揺られて行かなくてはならない。道中の交通事故も多い。精神的にも肉体的にも辛い旅である。
うつらうつらしながら夜を過ごし、日の出前にベッドから抜け出す。電子メールをチェックし、同僚のデスクに私の部屋の鍵を置く。手荷物をまとめ外に出ると、意外に冷たい空気が私の胸を刺す。いつの間にか、こんなに近くに冬が迫っている。二人の運転手と短い挨拶をする。モスクから聞こえる祈りの声。門番の短い咳払い。朝日がゆっくり昇ってくる。「さあ、メロンでもいっぱい食べてくるか。」カラ元気を出したつもりだったが、自分の声が意外に小さくてびっくりする。運転手が少し笑ったような、困ったような顔をする。出発である。
カブールの町はまだ眠りから覚めたばかりで、日中の喧騒が嘘のように静まり返っている。マーケットの中をうろついていた痩せた犬が私をちらりと一瞥する。私を乗せた車はその静かで冷ややかな空気を吸い込みながら北へ走る。チャリカまでの1時間あまりの道のりの間、私は何か忘れたことは無いか考えをめぐらすが、気がつくと考え疲れて眠ってしまっていた。チャリカの見慣れた町並みが見えてくる。事務所の門番が、何か眠そうに門を開け、私の顔を見て目を丸くする。チャリカでナンと砂糖がたくさん入った緑茶という朝食を取り、東京に事務連絡の電話を入れる。私は話しながら、自分の声が上ずっているのを感じる。「治安に特に気をつけて。」と同僚が声をかけてくれる。メロンのお土産を私に頼むことを忘れないチャリカの同僚と握手をして、私は更に北を目指す。いつの間にか日が高く上り、アスファルトの道が白っぽくかすむ。私は同伴車とのコンボイの編成に気を使いながら走り続ける。
舗装された道に別れを告げ、砂埃舞う道を、右手に岩山、左手に清流を見ながらしばらく進む。この道は遠くバーミヤンに続いている。山間に土色をした集落がいくつか見える。どうしてあんな高いところに家を建てるのだろう。他人が入ってくるのを拒んでいる。高い塀に囲まれた家が見える。少し風化したその壁は地面と同化し、まるで地面から生えてきたかのようである。
道は次第にうねるように山道を登り始める。これから「天国と地獄」が見える場所にさしかかる。
10月 2, 2003 事務所・スタッフ | Permalink
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2003年9月25日 (木)
美しい国(駐在員椎名カブール日記)
アフガニスタンで働きだして1年以上が経ってしまった。あっという間だ。
毎日の仕事に追われていると(仕事をこなすのが遅いという声があるのはさておき)ついこの国の問題点にばかり目がいってしまうが、この頃、この国は美しい風景を幾つも持っているという事に気付くことが出来るようになってきた。とくに最近、昨年大地震の被害にあったナハリンへの出張の中でそれを強く感じることができた。
私がナハリンへ向かう17時間以上のドライブの中で、私の目が奪われるのは、荒涼とした岩山にはさまれた谷川の清涼な流れとそこに広がる豊かな緑、そしてそこで農業を営む人々の暮らしである。特にバーミヤンに続く道はすばらしい。桃やリンゴがとれ、小麦の黄金色の畑と綿やジャガイモの緑の畑がパッチワークのように広がっている。小川の上で光がきらきらと踊り、子ども達が牛2頭を上手に扱って小麦の脱穀をしている。私の頭の中で「桃源郷」という言葉がふと浮かぶ。水は命の源だと本当にそう思う。心が休まる。
山間の美しい緑に別れを告げ、岩山の中を分け入っていくような道にさしかかるころになると、私は何かしらの緊張感を覚える。そそり立つ剣山、路肩に横たわる大きな落石、液体のように粒子の細かい砂塵。そこは私を拒み、私を見下ろしているように感じる。「踏破」などといった勇ましいものではない。私は今回も何か見逃してもらったような、何かに感謝したい気分になる。自然の中では私は本当に小さな存在なのだと思わされる。
子ども達が集まってくる。彼らの顔には大きな好奇心と恐れ、恥じらいが浮かんでいて、私が挨拶をすると一瞬の緊張の後、顔いっぱいの笑顔を見せてくれる。私がカメラのファインダーを向けると、それこそ砂埃を上げていっせいに逃げ出す。そしてまた、じわじわと私との距離を詰めてくる。女の子達がドアや壁の陰、屋根の上から私を窺う。その茶色や青や緑の瞳は、私の心を見透かしているように感じてドキリとする。慣れてくると、私の服を引っ張ってから逃げる子どもがいる。男の子は写真をとってくれとせがむようになるけれど、女の子は窓に顔を張り付けて私を見ているだけである。私が顔をあげると、パッとまんまるい目をして逃げ出してしまう。そんな子どもたちと遊んでいるときが、私がもっとも自由に感じられるときでもある。
道端でおじいさんやおばあさんがお茶を飲んでいけと私を誘ってくれる。家の自慢のブドウを食べていけと半分強引にすすめてくれる。私は土間にしかれたカーペットの上であぐらをかきながら、お茶をすすり、たわいのない話を村人とする。「今年のブドウの出来は良いね。」「何々さんちでは子どもが11人もいるそうだよ。奥さんは大変だね。」「最近の体の調子はどう?」そんな会話の中で、私は少しずつアフガニスタンという土地を感じている。
ふと気がつくとそこに美しい風景が顔を出している国、アフガニスタン。いつかもっと多くの人たちがこの国の美しさに触れてもらえる日が来ることを、私は願わずにはいられない。
9月 25, 2003 事務所・スタッフ | Permalink
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2003年7月17日 (木)
蝿がとまる(駐在員椎名カブール日記)
蝿が私の鼻の頭にとまっている。
抵抗を諦めた私の体の上に、1匹、また1匹と蝿がとまる。私の右足の甲に1匹、すねに2匹、お腹に2匹。左足のふくらはぎに1匹、太ももに2匹。頭に止まった2匹は喧嘩をしている。左腕に1匹、そして、顔に1匹。全部で12匹。私はひとり深いため息をつく。
チャリカの村々の衛生状態は私を震撼させる。シェルター(簡易住居)の受益者を訪ねて村の裏通りにさしかかった私は思わず息を飲む。目の錯覚か、それとも何かの予兆なのか。通りが暗くかすんでいる。すざまじい羽音。黒い影が渦を巻いて空中で波打っている。それは何か意志を持った別の生き物であるかのようである。足元に流れる下水。家々から垂れ流される糞尿。そこに群がる小さな悪魔たちである。私は隣にいるフィールド・オフィサーに話し掛けようにも、口に彼らが飛び込んできそうで、口に手をあてながら話す。匂いが目にしみ、私はただ顔を両手で覆いながら通り過ぎる。
この小さい悪魔達の人々に与える影響は馬鹿にならない。私達の昼食に彼らはまとわりつき、片手で振り払いながら食事を取ることすらある。私の同僚は手元に蝿叩きを置いて彼らを何十匹も“撃墜”しているが、ほっておくとその残骸が窓枠にたまってしまうほどである。これではこれからの暑い季節人々はお腹を壊しやすく、伝染病が発生しないとも限らない。しかし、人々の衛生観念を変えるのには時間も労力もかかる。トイレの普及に特化したNGOがどこかに存在すると私は以前どこかで聞いた事があるが、今の私にはその必要性が実感できる。この支援は緊急性と継続性の両方の面をもっている。やりがいのある支援だと思う。
チャリカの村々ではトイレ自体持たない家々が多く存在する。私達のシェルター事業ではトイレ設置を受益者に約束させたうえで行なっているけれど、村人から「何で?そこで用が足せるのに。」と真顔で聞き返され、空き地を指差されると少し考えざるを得ない。私は言い方を変え、「女性が夜に外で用を足すのは危険でしょ?」と聞いてみる。すると彼らもちょっと考える。
どうしたらこの環境を変えることが出来るだろうか。私が駐在したインドでは、蝿を悪魔の使者として劇を作り、村々でその劇を披露して人々の衛生観念を高めようとしていた。村人にとってはちょっとしたエンターテイメントだったのを覚えている。以前の日本では人々の糞尿は農民によって大切に汲み取られ、農業に役立てられたと聞く。農業国のこの国で同じことが出来ないだろうか。支援団体の多くは飲料水を確保する為のプロジェクトは行なうけれど、下水処理のプロジェクトはどうしてそんなに行なわれないのだろう。下水処理施設のようなものを日本政府が支援することは考えられないだろうか。華々しい、パンフレットの表紙になるようなプロジェクトではないかもしれないけれど、ユニークで重要な支援としてとても感謝されると思うのに。そんな支援が出来る国になったら、日本を誇りに思うだろうなぁ。でもまずは自分達の出来ることから…。
そんな自分勝手なことを考えながら私が身震いをひとつすると、蝿たちはいっせいに飛び立って不満を申し立てたが、鼻の上の小さな悪魔だけは同じ所に戻ってきて私をせせら笑った。
7月 17, 2003 事務所・スタッフ | Permalink
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2003年6月26日 (木)
バグダッド出張から戻って(駐在員椎名カブール日記)
カブールに戻ってきてからの忙しい毎日の中で、私の短いイラク調査の日々の記憶は次第に薄れ、あの強い日差しの中で見上げたフセインの肖像画や、町がどのごみの異臭、戦車のエンジンの音などがもやのように消えつつある。そんな時、私の心の中にはっきりとした印象を残した会話や光景だけが、ふとした瞬間に目の前に現れ、私の意識をイラクに引き戻すことがある。私は、私の心のフィルターに残ったそれらだけをここに書きたい。
「現在のイラクは手首にかけられた鎖を力で引きちぎった人間のようなものだ。“解放”された喜びで今はあまり感じていないけれど、これから手首に断ち切ったときの痛みが来て苦しめられるようになる。」
知り合ったイラク人エンジニアと食後の甘いお茶をすすりながら、彼が上目使いに私に投げた言葉は、私を弾いた。バグダッドに入って1週間ばかり、私が恐る恐る覗いた光景の一つ一つが、彼の言葉に吸い寄せられるように感じる。笑顔で外国人に手をふる街角の人々。白昼堂々と行なわれる略奪。轟く銃声と女性の声にならない悲鳴。店先に並ぶ衛星アンテナ。戦車に群がる子ども達。膨れ上がるアリババ・マーケット。これでよかったのだろうか。これで終わったのか。自問する私の心に残るのは一見明るい街角に漂う、消し去ることの出来ない臭気だった。それは灼熱の日差しにかすむこの街に、暗い影を落としていた。
“主体性”を失った街というのだろうか、それとも自分を見失っている街とでも言うのか。そう感じたのは私だけだろうか。戦車と鉄条網に守られたホテルと、それを遠巻きに見るイラクの人々。彼らの目からは、良くも悪くも私がブラウン管を通して見ていたあの強い眼力は失われていた。略奪され、火をかけられた学校の黒板に書かれた、「Arab oil is for Arabs.」の言葉。ホテルに貼られていた反米のビラ。“God will Kill you. You are the biggest thief in Iraq.” ビラの最後は、作成者の署名つきでそう結ばれていた。この国から奪われてしまった一番大きなものは何だろうか。
バグダッドをまわりながら、私の心は問いに占領される。問いが問いを生み、答えを求めながら私は放浪する。イラクが失ったものと得たものはどちらが大きいのだろうか。この国で真に”解放された”ものとは一体なんだろう。イラクの人々にとって、この先この国がどのような国になっていくのか。この国は本当にこれから彼らの国になるのだろうか。独裁と制裁、戦争の傷を背負ったこの混沌の社会の行方は砂埃のように漠然とした荒涼感に包まれていた。少なくとも私には、新たなイラク人のための国づくりの兆しは見えなかった。そこには銃による統制しかなかった。いや、それすらもなかった。
「アメリカ人、イギリス人、そしてイラク人が死んで、当然地獄に行きますね。そこで彼らは地獄から自分の家族にお別れの電話をかけることを許されたそうです。アメリカ人は30分話し込んで150ドル支払い、イギリス人も同じようにして100ポンド払いました。そして我らがイラク人が電話をすると、3時間も話したのに1ドルちょっとしかかからなかったそうです。シイナ、なぜか分かりますか?アメリカやイギリスへは遠距離電話だけれど、イラクへは地獄から地獄へのローカル電話だからですよ。」
ユーフラテスの川面に映る雄大な夕日を眺めながら、私を乗せた車は宿泊するホテルへと急ぐ。夕闇の訪れは、暴力がまたこの街を大きく支配する時の始まりを意味しているのだ。銃声。それに応える新たな銃声。爆発音。人々のくぐもった声。人々の間に広がる奇妙な興奮感と薄ら笑い。それらが私をいたたまれなくする。深い歴史と近代的な都市の顔の両方を持つこの街が、この混沌の中に沈んでいるのはとても悲しい。
今でもカブールのブラウン管に映るイラクは私を、あの灼熱の日差しと臭気の中に引き戻す。それはスイッチと共に暗闇に消えるけれど、私の心に奇妙な懐かしさと不安の後味を残す。
6月 26, 2003 事務所・スタッフ | Permalink
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2003年4月10日 (木)
イラクの火の影で(駐在員椎名カブール日記)
イラクでの戦争がはじまって48時間、アフガニスタンでは国連機関をはじめとした支援団体が外出を控え、この機に乗じたテロ活動などに備えた。ジェンでも大使館や国連のセキュリティーオフィサーなど、可能な限りの全ての人たちと連絡をとりながら有事の際の国外退去などについて準備を行なった。複数の情報によれば自爆テロリストが複数アフガニスタンに侵入したという噂があることで、カブールでも緊張が高まった。幸い特に大きな事件なども起こらず時間は過ぎ、人々は通常業務に戻ったけれど、国連のセキュリティーオフィサーは引き続きの警戒を呼びかけていた。その矢先、国際赤十字委員会(以下ICRC)の国際スタッフの一人が、アフガン南部で武装した集団に車をとめられ、射殺された。私と同じ28歳だった。犯行声明からはカルザイ政権に警告する意図のものだという。国際スタッフを故意に狙った殺人は、私が着任して以来初めてだと思う。
そして先日、東京本部事務局からイラクが日本を三番目の敵対国とみなしたので更に治安に気をつけるようにとの連絡が入った。アフガン政府はアメリカ支持を打ち出しているけれど、イスラム教国であり、アメリカに複雑な感情を抱いている人々が多いこの国で、この影響がどのように私たち日本のNGOに降りかかるのか、予測が出来ない。すぐに事務所のステッカーや看板をはずし、「JAPAN」という文字を消した。その時から私の心の中で何かが変わったように感じる。それは「日本人である」ということでアフガニスタンの人々から尊敬や親しみを受けている時に無意識の内に持っていた「私たちは大丈夫」という奇妙な安心感の崩壊と、戦火くすぶる外国で働いているという不安の顕在化ではないかと今思う。
メディアはイラクでの戦争であふれているけれど、アフガニスタンでは今でも、アメリカ・アフガン政府連合軍が空と陸から山に潜むタリバン・アルカイダ勢力に攻撃を加え、双方共に死者を出している。ロケット弾は基地に打ち込まれ、地雷は特定の建物や人物、軍隊を狙って新たに設置されている。ただそれはもう以前のようにメディアと世界中の人々の関心を集めるには至らず、ひっそりと人は死に続けている。アフリカの草原で、中南米のジャングルで、そしてアジアの高原で。いまこの瞬間に何人の人間が銃弾や爆弾を受け、誰の注目も浴びずひっそりと亡くなっているのだろう。そして幾つの家族が取り残されるのだろう。ボスニアで出会った、深い皺やため息とともに暮らす老婦人のように。息子達の遺影に囲まれてお茶をすする、アフガンの老人のように。
私は戦闘や地雷などで亡くなっているアフガン人や殺されたICRCのスタッフの事を考える。聞くところによると、彼を殺害したのは、ICRCから義足の支給を受けたアフガン人だったという。銃を向けられたとき、彼は何を考え、感じたのだろうか。私がシェルター事業の受益者に銃を向けられたとしたら。私の家族はどうなるのだろうか。今はただ、殻の無い貝のように行動するしかない。
ブラウン管からはみ出した世界で、今この瞬間にまたひとつ、命が奪われる。
4月 10, 2003 事務所・スタッフ | Permalink
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2003年3月26日 (水)
薪を割る(駐在員椎名カブール日記)
2月のはじめに降った雪も溶け、チャリカでは少しずつ春らしい陽気になってきた。
チャリカ事務所では今年度の事業に向けての調査や準備に追われているが、事務所に住み込んでいる現地スタッフはその合間に、食事のアレンジや洗濯などの仕事を分担、持ち回りにしたりしてやっている。薪割りもそのひとつである。
ある日の午後、昼食を腹一杯食べた私は、食後の運動にと薪割りをはじめた。私はこれまでに薪割りの経験があるわけではない。スタッフがやっているのを見たことがあるだけである。見よう見まねで私は斧を取り出し、薪めがけて振り下ろした。どっという笑いが私の背後で起きる。私の振り下ろす斧の奇妙な音を聞きつけて、現地スタッフ達がいつのまにか集まってきていたのだった。私の斧は薪を大きく逸れて地面を叩き、事務所はいつまでたっても寒風に吹かれたままである。
やみくもに斧を振り回していた私は次第に、斧の重さを感じながら振るえるようになってきた。日がたつにつれ、柄のバランスや持つ位置が手に馴染み、斧の重みをストレートに薪に伝えられるようになってきた感じがする。薪が割れた瞬間は本当にスカッとする。でも事務所での私の斧の評判はさっぱりで、スタッフの女性に「私のほうがまだましだわ。」と微笑まれてしまうほどである。我ながら情けない。
私が薪割りをしていると、スタッフの何人かが見かねてか「ちょっと貸してみろ」とばかりに私から斧を取り上げ、薪割りをはじめる。皆とても上手に斧を使う。自分がどれだけ上手に割れるのか、皆に自慢したいのだ。一人がはじめるとまた一人とリレーのように薪割りをするので、私の割る薪がなくなってしまうのではないかと不安になるほどである。仕事であった薪割りが、いつのまにか娯楽の一環になってしまった。まるでトムソーヤに出てくるペンキ塗りみたいだ。仕事もやり方によってはこんなにも楽しい。
私が密かに“マスター”と呼んで尊敬しているのが、事務所のガードの一人である老人である。彼の年は60歳を超え、アフガンでは高齢といっても良いのに、実に器用に斧を使う。無理をせず、力を使わずに斧の重みをうまく使って薪を割る。私の目指す振り方である。私は感心してただ彼の薪割りを眺めるばかりである。
昼休みが終わり、仕事に戻るスタッフと共に事務所に入った私がふと庭先に目を向けると、マスターが身をかがめてさっきまで私が薪割りでやり散らかした場所を掃き、小さな木片も無駄にせずに倉庫に運んでいる姿が目に入った。はっと身が引き締まる思いがする。私はアフガニスタンで得意げに斧を振り回してばかりいないだろうか。振り回した後、その場に残った木片のような、小さいけれども無駄には出来ない成果や人々との絆をなおざりにしてはいないだろうか。私はあらためて報告書に目を通し、今年の事業の準備に取りかかる。去年の結果を無駄にしない為に。せっかく生まれた復興の兆しを消さないように。暖炉の中では、すぐに大きな薪には火がつかず、小さな木片につけた火をうつすのが一番早くてよく燃える。
3月 26, 2003 事務所・スタッフ | Permalink
2003年3月13日 (木)
焦燥と希望の間(駐在員椎名カブール日記)
「この国はひどい。カブールはもう駄目じゃ。でもアフガニスタンには村がある。人々がやさしく、親切な村が。」
ある欧米のNGOが招待してくれたパーティで出会った年配のNGO職員が、独り言のようにつぶやく。その声はタバコの煙のように暗闇に揺らいで、吸い込まれる。
この国でしばらく働いている人の口からため息と共に出るのが、この国とこの国の人々に対する落胆と諦め、憤りと不安の言葉である。復興は遅々として進まず、人々はただ一時的な緊急支援をもらうことばかり考えている。ローカルスタッフが堂々とお金をごまかす。国際機関の事務所が武装グループに襲われ、活動資金を奪われた。問題を話し合うミーティングでは国際機関へのお願いばかりが提示され、アフガン人自身で何とかしようとする気が感じられない等々…。暗澹たる空気が話している私達の間に漂う。
「アフガン人に税制を確立する気がない限り、この国は駄目だよ。うちのスタッフでさえ、この国の復興のために税金を払う気さえない。共産主義の影響だろうか。教育や医療などのサービスはどこかから降ってくるわけではないのに。」
「この国を動かしている人間の中にも、税制を作ると自分の利益が減って困る人々がいるんじゃないかな。だから税制を作らない。省庁はいつもスタッフを送迎する車が欲しいだとか、お金がなくて活動できないだとか言って国際機関に文句ばかりいっているけど、どうして予算がないのか、その理由を考えたりしないのかな。」
「この国のシステムがしっかり税金を集めて、正しく使えるとも思えないけれどね。」
沈黙。
そんなある日、私はカブールの警官が喧騒の中で、足を失い、松葉杖をついている男性を助け、彼がタクシーに乗るのを丁寧に補助している光景に出会う。その警官が笑顔でタクシーを見送っているのを見ていると、この国は少しずつでもいい方向に動いているかもしれない、という気持ちになることができる。97年からアフガニスタン支援に係っているという、スイス人の女性が話してくれた言葉がぼんやり私の脳裏に浮かぶ。「昔は、アフガンの女性が国際スタッフとこうして一緒に食事をすることなんて考えられなかった。女性同士でも、なるべく人目につかないように、きっちり時間を決めて車で送迎をして…。カブールも変わったわ。」私の隣に座っていたアフガン女性が話し出す。「以前、町で買い物をしていて、品物がよく見えなかったから、ブルカの前をめくって見ようとしたら、突然肩を何かで殴られたの。驚いて振り返ったらタリバン兵が立ってた。私、走って家に逃げ帰ったわ。」タリバン時代、目の部分のメッシュは広さが決められていたのだという。最近、その部分が広くなったブルカもあると聞いた。少なくともカブールでは現在、ブルカを被らない女性を見ることも出来る。
私たちは、このアフガニスタンの焦燥と希望の間に立って活動している。どちらとも、今のアフガニスタンの姿だ。解決すべき問題は多く、支援の力、継続性は不確実である。けれど、この国では「それでも!」と言える人が悩みながらも支援活動を続けている。
3月 13, 2003 事務所・スタッフ | Permalink
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2003年1月16日 (木)
地雷原に触れる2(駐在員椎名カブール日記)
イスラマディンの住む村は北に延びる主要道路の脇にあり、タリバンと北部同盟の戦場になった場所にある。今でも地雷や不発弾が散在し、家屋の横に戦車砲の薬きょうが並べてあったりする。現在、幾つかのNGOがジェンの活動地域で地雷除去活動をしているけれど、まだこの道路脇の除去作業でさえ終わっていない。除去員は一人ずつ地面にうずくまり、地表を少しずつ削りながら作業をしている。その姿はまるで、小さなヘラで大地を黙々とひっかいているかのよう見える。危険な“現代“遺跡発掘、考古学調査。掘り当てるのは私たち人間のおろかな歴史ばかりだ。アフガンでの地雷除去にかかわる友人の話によると、住宅地での除去にあと5年かかる予定だということだが、本当にそれだけで終わるのだろうか。気が遠くなる。 村人の案内で村を回るうち、真新しく赤と白に塗り分けられた石の列が現れる。地雷原のしるしである。私はその石の列にはさまれた小道を歩いて次の受益者に会いに行くのだ。しばらく行くとその石の列が途絶え、草むらの中に1本道が見えた。私は村の人々が先導する中、その道を歩く。一緒に回っているスタッフが「私の後ろを歩いて。足元に気をつけて。」と言って表情を険しくする。村人が普段使っている道だけれど、正直私は足が震えた。先ほど見た、赤くマーキングされた石が血塗られた石のように思えてくる。歩きながら、私は以前現地の地雷除去員に聞いた話を思い出す。「マーキングされた石が置いてある場所は危険だから近づかない方がいい。石がない場所も、チェックされていないということかもしれないから歩かない方がいい。」じゃあ一体何処を歩けばいいんだと私は一人でぼやく。日本で見た、地雷爆発の瞬間を捕らえたテレビ映像とその音が頭の中でこだまする。アフリカのどこかの国で偶然撮影されたというそれは「パン」という、思ったより高い音がしたっけ。
先を行くスタッフの足元から目が離せない。瞬きも出来ない。なぜかひざの裏が痛み始めた。空気が薄いんじゃないのか。胸の奥まで息を吸いたい。息が苦しい。
急に目の前が明るくなった気がした。草むらを抜けたのだ。
肩で大きく息をした後、私が感じたのはやりきれなさと怒りだった。イスラマディンもこの道を通っているのか。そうなのか?私は一緒に働いた受益者の方々が、毎日この脅威を感じながらの生活を強いられている事に無性に腹がたった。何なんだこれは?何なんだ?怒りのやり場がなくて、私はしばらく声が出なかった。
事務所に帰る車の中、私は片足を失った彼の姿と、松葉杖をついた多くの少年達の姿をぼんやり想像していた。長い列を作る松葉杖の人々。その列の最後には、イスラマディンのやせた後ろ姿が見えた気がした。
日本にいたとき、地雷の恐怖は私にとって顔の見えない漠然としたものだった。1日に地雷で150人以上の人が被害にあっていると聞いても、なにかつかみ取れない脅威だった。アフガニスタンで働きだしてから、片足を失った人々を何度も目にしたけれど、時間が経つと共に私の感覚は擦り減って、いちいち反応しなくなった。でも、イスラマディンに出会った後、私にとって地雷の恐怖は彼の顔と存在感を持った新たな恐怖に変わった。私は時々、そっと自分の足に触れてみる。今でもアフガニスタンのどこかで地雷があの音を立てて爆発し、彼のような少年が被害にあっていると考える時、私はざらざらしたものを心に感じる。ひざがまた痛み出す気がする。そして私は、何かを思い切り蹴飛ばしたい衝動に駆られて席を立つ。
1月 16, 2003 事務所・スタッフ | Permalink
2003年1月 9日 (木)
地雷原に触れる1(駐在員椎名カブール日記)
6の村で500軒のシェルター事業を行なっていると、どうしても全ての受益者の方にいつもお会いできるわけではない。足を棒にして1日中歩き回っても40軒をまわるのがせいぜいである。全ての受益者の顔や家族の方を記憶するのも難しい。けれど、受益者をまわる内、自然と印象に残る出会いというものがある。イスラマディンとの出会いも、そんな出会いの1つだ。
私が彼の村を訪れたのは、シェルター事業も終盤を迎えた今、その建設作業を見届けて最終確認をするためだった。私は一人のフィールドスタッフを連れてここ数日村々を歩き回り、シェルター事業の受益者を訪ねながら作業の完了を促したり、記録の為写真をとりながら受益者から話を聞いていたりしていた。イスラマディンにもそんな受益者の一人として話を聞いたのだった。
彼はコックとして働く父を持つ、10人家族の3番目の息子である。カブールで7年間の国内避難民生活を送った後、故郷に帰ってきたという。上の2人の兄はイランに難民として出て以来連絡が途絶えている。彼は10代前半の若さで母親を支えながら、父親のいない間家を守っている。私の訪問に際し、兄弟と共に戸口に出てきた彼は、寒空の下シャツに薄いジャケットしか羽織っていなかった。
私が彼に関心を持ったのは、そのシェルターを見たからだ。猫の額ほどの土地に、決して上手に出来ているわけではないが、彼を中心に兄弟が力を合わせて建てたという日干し煉瓦の住居は、彼らの手形が浮き出て見えるようだった。イスラマディンはトイレの設置を促す私の言葉に注意深く耳を傾け、私たちはしばらく一緒に話し合った。家の経済状況は決して良くない事は見た目にも明らかなのに、彼は決してこびへつらったりせずに、年下の兄弟達をあやしながら、私たちは全てを無くしてしまったけれど、日本の支援のおかげで自分達の家を見つけることが出来た、とても感謝していると丁寧なお礼を述べてくれた。彼の妹がはにかみながら、私を見上げる。
私はふと、この瞬間のために自分はこの仕事を続けていると感じる。彼らが私達と一緒に働いてくれた事に感謝する。
どんなに一生懸命支援をしていても、至らないことで受益者との間に誤解や行き違いが生じ、彼らと口論になることがある。受益者の方の一部から非難され、場合によってはもうかかわらないでくれと言われる事もある。どうしてもこちらの意図が伝わらずにそう言われる瞬間は、重い岩を急に受け止めるような気分になる。私はそんな時、重たい足を引きずりながら、私のこの5ヶ月は何だったのだろうと、じっと自分の足元を見ながら歩く事になる。だから、受益者の方にお礼を言ってもらえたときは本当にほっとする。今回彼が私としっかり向き合ってお礼を言ってくれた時、私は彼の家族を支援出来た事を嬉しく思うことが出来たし、あの暑い夏のさなかの建設作業について、あれはお互い大変だったよなあと、肩をたたき合いたい気持ちになった。大げさではなく、私は彼のような受益者に会えたことで、アフガニスタンに来て良かったと、素直に思うことが出来たし、父親と同じようにコックになりたいという彼の夢が、近い将来実現する事を祈らずにはいられなかった。
地雷原の脇を歩いたのは、そんな出会いのすぐ後のことだった。
1月 9, 2003 事務所・スタッフ | Permalink
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2002年12月11日 (水)