2018年6月29日 (金)

生活を潤す井戸水

JENがナンガハル県に建設した井戸から人々は1人1日あたり約100リットルの生活用水を得ています。何人かの家族が写真にあるような容器に1回あたり計200リットルほどの水を汲み、1日に何度か家と井戸の間を往復します。

 



 

災害などの緊急時の1人1日あたりの生活用水の量は7.5~15リットルとされていますが、これは最低限の飲用・衛生・炊事をまかなうものです。1人1日あたり約100リットルというのはこれをはるかに超えていますが、日本では1人が1日あたり使う水の量は平均約375リットルで、3倍以上となっています。

 



 

井戸ができたおかげで「水汲みを担っていた子どもたちが学校に行ったり遊んだりする時間ができた」・「生活用水を購入せずに済むようになったのでお金を節約できる」といった声が聞かれます。

 



 

ただ、残念なお知らせもあります。こうした地域も安全でなく、先日、何人かが政府と反政府勢力との戦闘に巻き込まれて亡くなりました。多くの人びとは長年、故郷を離れて暮らし、戻ってきても一から生活を建て直さねばなりません。JENの井戸建設はいくつもある彼らの生活再建のニーズの一つを支援するものでした。

 

亡くなった方々のご冥福をお祈りするとともに、残された人びとが何とか力強く生き続けることを願います。

 



 

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6月 29, 2018 井戸修復・建設 |

2018年4月27日 (金)

井戸の完成

 

 とうとう11基の井戸が完成しました。避難していた国からの帰還や、紛争による国内の別の場所からの避難によって急増した人びとが、安全な水を手に入れられるようになりました。

 

 子どもたちは井戸から出る水しぶきに歓声を上げ、大人たちは安定した水源が得られたことに安心しているようです。

 

 これからは人びとが責任をもって井戸を維持管理していきます。そのために井戸の構造・維持管理方法などを学び、計画を作りました。

 

 ささやかながら、人びとの生活を支えるための支援ができたことをうれしく思います。

 

【水しぶきに歓声を上げる子どもたち】
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【着工式典】
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【井戸維持管理の演習】
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4月 27, 2018 井戸修復・建設 |

2018年3月30日 (金)

2度の避難生活をのりこえて

 

「長年難民として暮らしていたパキスタンから、アフガニスタンの故郷に戻り、新しい生活を始めようとしていた矢先、紛争の影響で再度、別の場所に避難しなければならなくなりました。2度も家を追われること、きっと皆さんには想像もつかないことでしょう。本当につらい日々でした」
 とハズラット・グルさん(45歳)は言います。

 

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【グルさんと彼の家族の仮家屋であるテント】

 

「息子たちは学校に入ったばかりで、私たちは生活を立て直そうとしていましたが、また一からやり直しです」

 

 グルさんは近年、急増しているパキスタンなどの隣国からアフガニスタンに帰還した100万人以上の人びとの1人です。不安定な情勢の続くアフガニスタンでは、帰国した後も、彼のように再度、別の場所へと避難するケースも珍しくありません。さらに、避難先でも安全な水を手に入れること、健康に暮らすこと、子どもたちに安心して教育を受けさせることなどは容易なことではありません。

 

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【JENが建設中の井戸】

 

 そこで、JENはパキスタンと国境を接するナンガハル県に帰還した人びとを対象に、井戸の建設と衛生啓発を行っています。グルさんは完成した井戸の維持・管理を担うメンバーに選ばれました。

 

 彼は言います。「このような形で人びとの役に立てることが嬉しいです。また、妻は衛生啓発を通じて自分たちや子どもたちが身の回りを清潔にし、健康に過ごしていくための方法を学んでいます」

 

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【男性グループ向け衛生啓発】

3月 30, 2018 井戸修復・建設衛生教育 |

2018年3月16日 (金)

困難にある人びとを支援するということ

 

 アフガニスタンは2001年のタリバン政権崩壊後、政治・経済・社会サービス面の復興の途上ですが、いまだ長きにわたって紛争に苛まれています。現在も250万人の人びとが難民として国外に滞在しています。

 

 中にはタリバン政権以前から長年、パキスタンやイランといった隣国に暮らしてきた人びともいます。しかし、これまで100万人以上の人びとが、土地や家を失い若い世代にとっては馴染みがない「故郷」に戻っています。何とか生活を立て直そうとしますが、中には紛争により国内の別の場所に避難せねばならなくなる人びともいます。

 

 こうした人びとへのささやかな支援として、JENは1,000世帯の他国から帰還した人びとに水タンク・プラスチックシート・台所用品といった物資を提供しました。また、300世帯の帰還した人びと、国内で避難を余儀なくされた人びと、彼らを受け入れているコミュニティの人びとに衛生啓発を行い、約800世帯の人びとを対象に井戸を建設しています。

 

 このような支援は大河の一滴かもしれません。しかし、誰もが取り残されたと感じたり、この世は地獄以外の何物でもないと悲観したりしてはなりません。人びとを取り巻く状況がたとえ彼らを押し流したり溺れさせようとしたりする大きな流れのようなものであろうと、私達が協力して大きく手を広げ、あたかも強靭な網のように彼らを迎え入れることができるはずです。

 

 シニア・プログラム・オフィサー
 中嶋 秀昭

3月 16, 2018 井戸修復・建設支援物資配布衛生教育 |

2010年4月28日 (水)

きれいな水を求めて

Gul_bahar_no_1_middle_school_wate_2  現在、ジェンのアフガニスタンチームが遂行する事業の一つに、パルワン県のチャリカ地区にある、最もニーズの高い7校で給水施設の設置・衛生施設の改善・衛生教育(通称「WASH(Water, Sanitation, and Hygiene)」)があります。まだ事業開始から4カ月ほどですが、来年度に実施する事業のための調査も開始しました。来年度は、パルワン県のチャリカ地区から他の地区の学校へ、このWASH事業を拡大していく予定です。この約1カ月でチャリカ地区の近隣地区22校で調査を終了、さらに約10校の調査をします。

Aali_jahad_middle_school_water_sour   この地区では、地表から60M程度の浅井戸では水が出ないので、運河の水を使用している学校が多数ありました。この運河には、生活排水も流れ込みます。運河の水をきれいな飲み水にする方法が、アフガニスタンには、まだありません。全国34県のうちの2県で、欧米系NGOの支援によって、各家庭(1世帯約8人)で使用する水が濾過できるフィルターが設置されました。しかし、学校でも使えるような大型のフィルター装置は、まだありません。100M以上の深さの井戸を採掘すれば、運河の水に代わって、きれいな水を使える可能性もありますが、その採掘機械と技術が、民間の建設会社には、まだ普及していません。

 多くのアフガニスタンの人びとにとって、きれいな水を手に入れることは、とても難しいことです。アフガニスタンの現状を踏まえると、一つの団体ができる支援は限られています。時間と手間がかかりますが、さまざまな機関・団体・政府と調整しながら、アフガニスタンの人びとにとってベストな支援ができるよう、活動を続けていきたいと思います。

4月 28, 2010 井戸修復・建設 |

2006年3月 9日 (木)

ロバは宝物

1  JENが現在支援しているパルワン州チャリカ地区は、タリバン政権時代には数多くの国内避難民を出したことで知られています。とくにタリバンによる同地域への支配がピークに達したとき、当時北部同盟を率いていたマスード将軍を訪ねて一晩のうちにすべての人々が消えたとも言われております。当然、海外に逃げるだけの経済的余裕がなかった人々ですから、レンタカーならぬレンタ・ドンキーとも呼べるロバの力を借りて家財道具共々トボトボと歩いて避難したわけです。

2  こうして命の恩人ともいえるロバの存在は、同地域の人々にとっては今も宝物です。重い荷を背負って文句を言わず、子どもらと共に働き、また温かいまなざしを人々に送り続けます。

 写真は私たちが掘った井戸の水を飲む微笑ましいロバの様子ですが、動物たちと生きる暮らしの豊かさを垣間見ながら、私たちの事業も人々の暮らしに溶け込みはじめていることを実感する今日この頃です。

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3月 9, 2006 井戸修復・建設 | | コメント (0)

2005年9月29日 (木)

最初の井戸が完成!

3 日本政府の支援を受けて実施しているパルワン州帰還民総合支援の一環として、月末から順次掘削を始めていた井戸の第一号がこの程完成しました。場所はパルワン州チャリカ地区バヤン・ウリヤ村のニアジと呼ばれる集落で、この井戸で80家族、約600人が安全な飲料水を飲むことが可能になります。

 

この集落は、チャリカ地区では珍しくパシュトゥーン人の居住地です。しかし、村のリーダーをはじめ周囲はタジク人が主流であるため、村に割り当てられる支援もなかなかこの集落には届いていません。住民は収穫した農作物を地方の軍閥から不当に徴収されるなど、厳しい生活を強いられています。安全な水を使用することができず、これまで住民は汚染された水路の水を仕方なく使用していました。7

今回のJENによる支援は住民にとって予想外の出来事であったようで、掘削現場では大人から子どもまでが大勢集まって、井戸掘削機が地面を掘っていく様子を嬉しそうに眺めていたのが印象的でした。 

他にも、チャリカ地区の8ヵ所で掘削を進めており、冬の到来までに20本の井戸の完成を目指しています。

             

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9月 29, 2005 井戸修復・建設 | | コメント (0)

2003年12月 4日 (木)

ナハリンへの道5(駐在員椎名カブール日記)

 井戸備品業者とは、井戸に取り付ける手動ポンプやパイプ、シリンダーなどを扱う業者である。今日はこの業者との商談に、村長ともう一人の村人を連れてきた。理由は井戸掘削業者との交渉とほぼ同じだが、もうひとつだけ考えていた事があった。

 今回の事業を計画していた段階から、私は様々な井戸とポンプを見てきた。私はエンジニアではないので、ポンプのデザインなどについては何もわからなかったが、いくつか気がついた事があった。その1つが、水があってもポンプが故障していて使えない井戸の多さだった。いくら押しても水をくみ上げられないポンプ。柄が折られてしまったポンプ。そしてそれをただ見ながら、何もしない、何も出来ない村人達。貴重な募金で掘らせていただくナワバデ村の井戸は、できるだけ長く、多くの人に使っていただきたい。私は、掘った後数ヶ月で使えなくなる井戸は掘りたくなかった。

 そこで鍵になると思ったのが、何のことは無い、メンテナンスの問題だった。何故村人は壊れたポンプを直さない・直せないのだろうか?この手動ポンプの何処が壊れやすいのだろう?ただのお金の問題なのだろうか?分からないなら専門家に聞いてみればいい。そこで今回の商談である。業者は自分の商品を売り込む為に、いくらでもこちらの質問に答えてくれる事が多い。私はこの機会を逃す手はないと考えたのだ。村人は壊れたポンプを直したくないのではなくて、仕組みが分からないから直せないのではないだろうか。この商談をちゃっかり使って、村人と一緒にポンプの仕組みついての勉強会にしてしまおう。

 村人と一緒に、商品の説明からポンプの仕組みについての話に誘導してゆくと、業者は熱心に、それぞれのパーツの説明と一緒に仕組みについて説明をしてくれた。しめしめ。村人と質問をしながら学んだところによれば、いくら押しても水がくみ上げられないのは、基本的にシリンダーの部分が壊れているからで、特にシリンダーで水を吸い上げる部分のパッキン(プラスチック・ゴムでできたリングのような部分)が摩滅して隙間が開いてしまうことが原因である事が多いということがわかってきた。なんだ、ポンプのこの部分は消耗品なんだ。知らなかった。ならスペアを買っておいて磨り減ったら自分で交換すればいい。費用は1ドルちょっと。先生、ありがとうございました。

 実際にはこんなに簡単に問題が解決するとは限らない。けれど、村人とポンプの仕組みについて勉強できたのは良かった。村人は業者とも仲良くなる事が出来て、これでポンプを修理するときも話が早く、だまされることも少なくて済むだろう。

 クラスメイトを見送るようにして村人と別れ、私はカブールへの帰路につく。今晩はまた車内でドライバーのいびきとともに夜を明かし、17時間のドライブが私たちを待っている。でも、私の心は軽かった。マーケットを冷やかしながらお土産のメロンを買って、さあ出発。明日の夕方には、6日ぶりにシャワーが浴びられる。私を乗せた車は夕焼けに照らされて赤く輝く道を急ぐ。私は心地良い疲労の中で目を閉じる。この道は何処まで続いているのだろう。そして私をどこまで連れて行くのだろう。砂埃の中を、林を抜け、小川を渡り、人々の生活の灯を窓の外に流しながら。今回の旅の思い出を夢の中で引きずって、私は頭を窓ガラスに何度もぶつけながら眠る。

12月 4, 2003 井戸修復・建設 | | コメント (0)

2003年11月27日 (木)

ナハリンへの道4(駐在員椎名カブール日記)

 またか。

 私は短気を起こしかけている自分を抑えて、すっかり冷めたお茶をすする。怒ったら負けである。この地域で今動かせる掘削機械を持っているのはこの業者だけだ。彼は私の足元を見ているのだ。なんとしても彼の首を縦に振らせなければ。さもないとこの事業は一貫の終わりである。

11201  町にある食堂の一角、5人の男がひざをつき合わせて話をしている。かれこれ3時間。私とスタッフ、ナワバデ村の村長と業者2人の話し合いは、掘削機械の輸送費をめぐり、振り出しに戻ってしまった。業者の一人が、ジェンが輸送費をもっと出さなければナハリンなんかに行くもんかとゴネ始めたのである。嫌になるが、まあ、よくあることである。契約書を作ったって、お金を払ったって、「現物」が手元に届いてからその質を確認しない限り安心は出来ない。電話一本というわけには行かないのだ。リコール制度なんてアフガニスタンには無い。だからもちろんお金は最後の最後まで払わない。配布物だったらなおさらだ。出来ればそれを作っている工場まで行って確認する。「支援は足を使って賢く」それが鉄則であると思う。

 こんな事もあろうかと、私はこの交渉の場に村長を連れてきていた。目的は3つ。地元民の強みを生かして、交渉する金額や条件をとんでもない方向にもっていかないため。ジェンが支援を完了し、村人が独自で井戸の管理をする時を考えて業者との顔をつなげておくため。そして、大げさに言えばジェンがどんな苦労や問題を克服して彼らを支援しているか、実感してもらうためである。村長は業者の一人がナハリンの出身である事を突き止めて村の窮状を訴え、業者をつなぎとめようとする。これは強い。

 しかし状況は私たちに不利だった。別の団体が現場をよく調べずに他の掘削業者と相場の3倍の費用で契約を結んでしまったらしく、その影響がここまで来ているらしい。こうした無責任な仕事は現地経済を混乱させ、結局地元民が一番被害をこうむることになる。案の定業者は今回の掘削の本数が思ったより少なく利益が薄いと文句を言いはじめ、それなら輸送費をジェンがもっと負担すべきだと主張している。私は前もって入手しておいた、他の団体とこの業者の過去の契約書コピーを見せ、反論する。

 「でもこの団体との契約では輸送費を請求していないですよね。本数もさほど変わらないし。どうして今回だけそんなに払わなくちゃいけないのかな。」

業者は一瞬あっけに取られた顔をし、その後いたずらっぽい顔をして同僚に笑いながら話しかける。「こりゃしてやられたわい」というわけか。前もって別の井戸備品業者と話し合いをし、契約書を見せてもらったときに無理やりお願いしてすかさずコピーしておいて良かった。3時間半の交渉の末、結局掘削費は据え置き、輸送費は業者が請求した半額を支払う事で落ち着き、予算内で支援を継続できることになった。しかしこの業者はその後機械をなかなか村に運ぼうとせず、ジェンが同行して半ば強制的に掘削を始めるようにした。1つの山を越えたか。新たなトラブルの始まりか。

 明日は井戸の備品を扱う別の業者との交渉である。私はこの機会をあるチャンスだと考えていた。

11月 27, 2003 井戸修復・建設 | | コメント (0)

2003年11月20日 (木)

ナハリンへの道3(駐在員椎名カブール日記)

1120  無数の蚊やドライバーのいびきとともに車の中で眠れぬ夜を過ごし、ようやく目的の村に着くと、村人たちは大きな笑顔で私たちを迎えてくれた。

 この村、ナワバデ・ホジャへデル村は、ホジャへデル村で震災に会い、家屋や家族を失ってしまった70あまりの家族が、新しく移住して出来た村である。他のNGOが住居支援を行なったが、近くにあった井戸は十数年も前に干上がっており、村人達が新たに掘っている井戸も、水が出る前に資金難で挫折していた。村人はロバで1時間半かかってもとの村や隣村から水を毎日運ぶ生活を強いられている。

 私がこの村で支援をさせていただきたいと考えた理由はいくつかあるが、やはり村人の水の必要性と、彼らのやる気の高さが大きかった。以前訪ねたある別の村でのこと、村人は250家族以上住んでいると言うのだが、私がどう数えても100家族ほどしか見えず、3つある井戸では水が足りないと聞いたが、別の日の朝に行って見ると、村人が井戸に行列を作っているわけでもなかった。家族の数も、住居支援を行なった別のNGOに確認をとるとやはり100戸程度という話だった。結局の所、人は家にひとつ井戸が掘られるまで「井戸が足りない」と言うことが出来るわけである。支援は「賢く」ならねばやっていけないのだ。

 その点、ナワバデ村は違った。戸数を最初からちゃんと申告してくれたし、村の寄り合いがしっかりしていて、ジェンが来る以前から話し合いを行なった後、自分達で何とかしようとお金を出し合って井戸を掘っていたのだった。

 私が支援をはじめるに際して先ず心に決めたのは、この彼らの「自立心」をくじくような事は絶対にしないということだった。ジェンは彼らの背中を軽く押させてもらえればいい。そう思った。つまるところ、これから掘る井戸は彼らの井戸なのだ。だから私が村人とはじめに話し合ったのは「この村が今出来ることは何か」だった。村人が答える。 
「うちらはお金は無いが若い者がいる。メロンの収穫が一段落したら働ける。」私がすかさず尋ねる。「掘削機械を村に運ぶのに、あの道じゃあ苦労すると思いませんか?機械を置く場所は?」「道ならならせばいい。機械はこの敷地に置けば私たちが番を出来る。」こうなったらしめたものである。後は村人がアイデアをくれる。

 村人たちと話しこんでいるうちに陽はすっかり傾き、村人が「泊まっていけ」とい言ってくれるのを「井戸が完成したらね」と振り切って、私は夕暮れの道をナハリンの町の中心へと向かう。夕闇の中にぽつんと浮かぶひとつの明かり、それが町で夕食を取ることにしている食堂の灯である。私を乗せた車は、そこに吸い寄せられるように静かで暗い道を砂埃を上げて進む。いつもの食堂の主人がランプを下げてやってきて、二言三言言葉を交わすと、オクラをトマト味に炒めたものと固いナン、そしてお茶を持って来てくれる。現地スタッフと言葉少なにそれを食べ、お茶を飲みながら夜空を見上げると、満天の星空が広がっている。私は、まるでその星空に落ちていくような、不思議な感覚を覚える。今日もよくスタッフや村人が働いてくれた。よかった。
明日は井戸掘り業者との交渉、正念場である。

11月 20, 2003 井戸修復・建設 | | コメント (0)