2010年8月 5日 (木)

アフガニスタンの建設事情

 アフガニスタンは30年以上もの間、戦闘によって国が疲弊してきました。犠牲者は300万人にのぼるといわれ、政府や私営の建設物が数多く破壊され、国民は避難生活や不自由な生活を余儀なくされました。病院、学校、農業用の設備の破壊により、病人や子どもたちはテントで治療を受けたり、机も椅子もないモスクで勉強をしなければなりませんでした。

 こうした状況に対して、アフガニスタン政府は解決に向けての取り組みを徐々に始めています。家々や市場の建設が人々の努力によって進み、国内避難民の人びとの家や仮設住宅も建設が始まっています。病院、学校などの建物、農業用の設備などは、NGOや国際機関によって、次々と建設が進んでいます。

 私たちの願いは、人びとが学校や病院に容易にアクセスできるようになることです。

8月 5, 2010 住宅再建 |

2006年6月 8日 (木)

無力さだけを感じる日々

1_1  JENの事業地は、もともと反タリバン政権で北部同盟を支持する住民が多かったため、タリバン時代に多くの人々が北部同盟の本拠地パンジシールへと避難していました。タリバン政権崩壊後、故郷に戻ってきた人々の一人に当時の様子を聞いてみました。

2_1  『夜中になると、人々が道に溢れいっせいに歩き始めました。私も慌てふためきながら借り物のロバと食料で、山々に囲まれたパンジシールへと向かったのです。暗く険しい道でしたので途中で命を落とす子供や、空爆で家族を失った人もいました。

 その後の3年間は、自分の無力さをただ感じるだけの避難民生活でした。
タリバン政権崩壊と同時に故郷の地を再び踏みましたが、荒れた畑を元に戻すことだけに精一杯で今も暮らしはなかなか良くなりません。
それでも人々に勧められ、支えられたおかげで、JENの住宅再建事業に参加することができ、自分の家を持つことができました。』

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6月 8, 2006 住宅再建 |

2006年4月27日 (木)

現地の人々との堅い握手

1234_1  避難生活を終えた人々と共に行ってきた住宅再建事業ですが、本事業には住宅供給の他にも、住民の『心のケア』という大きな目標があります。
JENは建材などを供給しますが、参加者は労務と建設費の一部を自ら工面するなど、自尊心を取り戻しながらの活動となります。
 

 また引越しが無事完了したあかつきには参加者には、労務費が手渡されます。この労務費を受け取ることで、彼らの努力が社会から評価されること、そして将来への希望が少しでも実感できるような工夫がなされています。 

 労務費はたったの50米ドルですが、アフガン公務員の月給がほぼ同額といわれており、決して少ない額ではありません。
 参加する人々は、この報奨金の支給を受けることにより、これまで家族にかけてきた苦労をねぎらい、また新しい生活と未来に向けて再出発していくのです。

 労務費を手渡す瞬間は参加者の一人一人にとって努力の完成を意味しており、、もっとも貴重な一瞬となります。

 握手を交わすたびに感動と感謝の気持ちが手のひらの中で一気にふくらみ、握手を終えることがなかなかできない・・・そんな微笑ましい光景によく出会う今日この頃です。

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4月 27, 2006 住宅再建 |

2006年2月 2日 (木)

家の中は色とりどり

12  住宅再建事業は今、厳しい冬の中で完成した新家屋への引越しが始まっています。家屋といっても、土壁で平屋のため、土でできたかまくらのような印象に近いと言っていいでしょう。そのかまくらの中の暮らしぶりは?と覗いて見ると、意外や意外、なかなか華やかさと温かさがあります。部屋には火鉢のコタツがあり、その周りで家族が団欒をしています。

2  住宅再建というと、これまでどうしても男性的な事業というイメージしかありませんでした。しかし、地域の女性と話す機会が増えてくると、「男はどこでも寝泊りすることができる。だけど、女性や子どもたちはそういうわけにはいかないの。家を持つというのは、女性や子どもたちが安心して寝泊りできる場所ができるということ。だから、住宅再建は女性にとってとても大切なの。」と、よく耳にします。

 アフガニスタンの女性たちの細やかな心遣いが、色とりどりの新しい生活と温かみを家族にもたらしているのです。

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2月 2, 2006 住宅再建 | | コメント (0)

2003年1月23日 (木)

スイッチが入る瞬間(駐在員椎名カブール日記)

123  私がNGOの世界に入ってもうすぐ2年が経とうとしている。

 NGOでの仕事は私にとって、長距離走で長い下り坂を走るのに似ていると感じる時がある。自分ではもう少し自分のペースを守って走りたいのに、足だけがどんどん坂を下ろうとして上半身がのけぞる、あの感じである。危ないと感じているのに、さらに車のアクセルを踏み込む感じである。最初の赴任地だったインド・グジャラート州で震災復興支援事業を行なっているとき、私は事業が無事完了するのが先か、私が倒れるのが先かの二つに一つだと思いつめたことがある。学校から出たばかりの頭でっかちの私は、現地での様々なトラブルの渦の中で、それこそじっと自分の手を見ずにはいられない、得がたい経験をさせていただいた。36度、インド炎天下の中のテント設営。受益者同士の争い。マラリアの恐怖。腹痛で迎える夜明け。下水の匂いのする部屋の中で、余震に怯え、腹痛に耐えながら私は孤独だった。人が信じられなくなり、自分に自信が全く持てなくなっていた。そんな中で、私が活動を続けられたのは、幾つかの“スイッチが切り替わる瞬間”のおかげである。

 この年末、私は風邪をこじらせ熱を出してしまった。アフガニスタンでのシェルター事業は終盤を迎え、私は現場をくまなく回らなければならない。新しい事業を企画し、休日返上、深夜まで予算案を立てなければ現地スタッフが路頭に迷う事になる。同僚は他の事業にかかりっきりになっていて、迷惑をかけるわけにはいかない。その日、私は重い頭と寒気のする体をもてあましながら、フランスのあるNGOに井戸掘削の現場を見学させてもらう事になっていた。気分は最悪で、これから1日の事を考えると憂鬱だった。そんなときに、その瞬間は訪れる。全く唐突に、予期しない形で。

 今回のその瞬間は、掘削機械がきしみながら始動した瞬間だった。爆音と共に機械はうなりを上げて水をパイプに送り出し、パイプの先についた回転式の刃が地面を削りだす。黒い煙が吐き出される。泥水があふれ、人々の期待と不安の目がそこに注がれる。すると私はデジカメを手に泥だらけの現場を小走りしながら写真を取ったり、現場エンジニアに機械について質問しながら詳しい説明を求めていたりしている自分に気付く。私は自分の体の中でマイナスの気が一気にプラスに転じるのを感じる。血が騒ぐ。そうなると私はただその衝動のようなものに体を任せ、ただ走り、笑い、怒り、歩き回るだけである。幼いころ、私は父に連れられて父の仕事場に行き、父の運転するブルドーザーの起こす地響きにドキドキしたっけ。いつのまにか頭痛は消え、体がぽかぽかしている。力が体にみなぎっているのを感じる。

 この貴重な瞬間は今のところ自分で意識的に決められるものではない。それは多くの場合、新しいものに触れたり、現地の方々と触れ合う機会に恵まれたりするときに突然起こる。ボスニアではセーターを編んでいた老婦人にそのセーターを着させていただいた瞬間だった。インドでのそれはキャンプサイトの子供達が私を見ると駆け寄ってきて私に抱きつき、彼らの熱い息と心臓の鼓動を自分のわき腹に感じた時だった。私はその子供達の小さな鼓動を今でも同じ場所に感じることができる。大震災を生き延びた、熱い生命の息吹。私は今日も現場に向かう。すると今まで作業を渋っていた受益者のシェルターに窓ガラスが入っているのが見える。私は反射的に車のドアを開け外に飛び出す。かばんからペンが落ちる。私はそのペンを拾いながら、自分がまたその衝動のようなものに動かされようとしていることに気付き、苦笑いする。そして深呼吸を一つして受益者のもとへ向かう。一歩ずつ。自分を確かめるように、取り戻すように。私は頭の中でアクセルを踏み込む。今度こそ、前のめりに坂道を駆けおりてやる。

 私はこの仕事が嫌いではない。

1月 23, 2003 住宅再建 | | コメント (0)

2002年9月 4日 (水)

アフガニスタンにいるクジラの話1(駐在員椎名カブール日記)

 日本にいた時、私は世界の先進国がアフガニスタン支援に巨額の資金を拠出する事を決めたニュースを何度も耳にした。日本政府が1億円以上の資金を出してアフガン暫定行政機構に公用車を8台支援したことには疑問を持ったものの、私はある種の期待をもってアフガンに入った筈だった。しかしひとたびアフガニスタンの土を踏んでカブールから車で郊外に出ると、人々の暮らしは基本的にあまり変わっていないのではないか、支援金はどこに行ってしまったのだろうかという思いにとらわれた。物乞いの子供達や女性。赤と白にペイントされて道の脇に並べられた、地雷原を示す石の列。崩れた家屋の壁はまるで古代遺跡のようだが、その脇に放置された戦車の残骸がそれが戦争の遺物である事を知らしめている。そしてその脇をやぎ飼いの少年がゆっくりと歩いていく。

 シェルター・プロジェクトの実施のため、受益者の村々を回るとき、外国人の私は村人の圧倒的な好奇と期待の目に見つめられ、取り囲まれる。しかし受益者の数と予算は決まっており、村人全員にそれぞれ支援をすることは出来ない。支援機関への過剰な期待は、疑心暗鬼と不満に変わりやすい。破壊された家屋を目の前にしての村人との話し合いは、忍耐と粘り強さが必要なのはもちろん、プロジェクトに対する自分自身の中の信頼、自信が求められる。支援金が正しく使われているという意識や自信は、現場で働くスタッフには不可欠なものであると私は思う。

 カブールから北に車で1時間半、パルワン州・チャリカにあるジェン・チャリカー事務所で現地スタッフ達とプロジェクトについて話をしながら、私は支援金の行方について思いをめぐらしていた。その時、一人のスタッフが私に問いかけた。

 「シイナ、アフガニスタンにクジラがいるって話、知ってるか?」
 「アフガニスタンにクジラが!?海もないのに?」

9月 4, 2002 住宅再建 | | コメント (0)

2002年8月27日 (火)

木材調達はひと騒ぎ(駐在員椎名カブール日記)

 私は担当しているシェルター事業に必要な木材を調達する為、木材マーケットによく足を運ぶ。木材に詳しい現地のNGOと一緒に買い付けに行くのだが、これが一筋縄ではいかない。

 私たちが購入する木材は、後に提携している現地NGOによってドアや窓枠に加工され、受益者に配られる物で、まだ加工がされておらず、切り出して皮をはがされた状態の木材である。マーケットではそれが品質や値段ごとに「山」になって積んであって、私はその小山の間をすり抜けながら、匂いをかいだり、乾燥具合を確かめながら電卓片手に歩き回る。木材はアフガン産のほかに、パキスタン産、ロシア産などがある。最近の物価の上昇で木材も計画段階の2倍以上に価格が膨れ上がるケースもあり、頭が痛い。
 オーナーをなだめたり、強く言ってみたり、またお願いしたりして昨日買出しが決まった木材の山の大きさを確認しにマーケットに行ってみると、オーナーがいない。周りの人に聞くと彼の妹が亡くなったらしく、故郷の村に帰っているという。やれやれ。明日帰ってくるというので翌日来てみても、彼の姿はない。オーナーのパートナー(?)という人物に許可をもらい、木材を一本一本調べていくと、山の中から質の悪い木材が出てきた。これは買えないと伝えるとまた一から交渉のやり直し。

 やっと交渉がまとまり、木材を運び出す時になって、このマーケットを取り仕切る男がやってきて何か木材のオーナーに話しかけた。すると突然男達の間で激しい議論が巻き起こった。聞くと私が交渉していた木材のオーナーは4人(!?)いるオーナーの内の2人で、もう2人の同意を得てから売るべきかどうかもめているという。一人の男はつばを飛ばして演説し、別の男は負けじと腕をふって反論する。やれやれ。このマーケットをあきらめて別で購入するか...でもここが一番安いし....また一から交渉か....。ローカルスタッフの一人がつぶやく。「この国は何でもかんでもロヤ・ジルガが必要みたいだ。」

 こうして砂埃と木材のくずの風に吹かれながら、木材調達の日々は続く。

8月 27, 2002 住宅再建 | | コメント (0)