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2003年10月16日 (木)

オープニング・セレモニー開催

 現地の伝統産業である絨毯織りの職業訓練と識字教育で、アフガニスタン女性の自立を支援する事業の開始にともない、去る10月7日(火)、この事業が行われるカブール市・第6区のカライ・シャザダ地区にある絨毯センターでオープニング・セレモニーが行われました。このセンターは現地NGO、Community of Afghan Women Handicraft(以下CAWH)と協力して実施されます。

 セレモニーには、JENカブール事務所長の青島あすかのほか、宮原信孝駐アフガニスタン公使や、女性省副大臣などアフガニスタン政府要人、カライ・シャザダ地区の代表者、CAWH代表、国際機関関係者、各報道機関、地域住民など約500人が出席しました。

02  アフガン絨毯が敷かれ、数多くのソファーと椅子が用意された会場のカラフルで大きなテントの壁には、日本の国旗、JENのサイン、日本からのメッセージ(今年6月の『世界難民の日』のイベントで来場者の方々から集められたもの)が飾られ、さらに『JEN』と『From the People of Japan』のステッカーが貼られた各資機材(シェイキング・マシーンなど)や絨毯織り機も置かれました。

 センターの女性代表によるコーランの朗読で幕を開けたセレモニーは、民族衣装を着た地域の少女たちによるアフガニスタンの国家の斉唱、続いて日本大使館の宮原公使を始め、6名がスピーチを行い、日本政府の支援、当事業の説明、女性の社会的役割、アフガニスタンに対する期待などについて話されました。その後、シェイキング・マシーンの前でのリボンカットと、『From the People of Japan』のメッセージの入ったケーキカットへと続き、絨毯織り、シェイビング、シェイキングなどのデモンストレーションも交えたセンター内のツアーも行われました。この日は、メディアの関係者も多く来場され、このニュースは10月8日の共同通信のウェブ・ニュースでも配信されました。

10月 16, 2003 女性自立支援 | | コメント (0)

2003年10月 9日 (木)

ナハリンへの道2(駐在員椎名カブール日記)

 アフガニスタンで仕事をしていて何が一番怖いかと聞かれると、私は迷うことなく「交通事故」と答える。地雷を踏まない保障はないし、カラシニコフ銃は珍しくも何ともない。爆弾テロの噂はいつもあるし、強盗などの一般犯罪は日常茶飯事の感がある。けれど、交通事故にはかなわない。その恐怖は影のように私にまとわりつき、不謹慎だとは分かっていても、ふと気がつくと私の頭は想像をし始める。即死ならかまわない。でも奇妙にひしゃげたあの鉄塊のなかで、自分の死をゆっくり感じながら死ぬのは耐えられない。この国で何度となく見た事故の光景の中に、私は自分の影を見る気がして目をそむける。私の車は同伴車との間隔を確かめつつ、私の心を引きずりながら走り続ける。

 山の陰に回りこむ幾つものカーブには、カーブミラーなどといった便利なものは無い。手前でクラクションを鳴らし、恐る恐る車の鼻を入れてみると、陰から急に対向車が砂埃を巻き上げて飛び出してくる。急ブレーキ。煙幕のような砂埃が後ろから車を包み込む。日本ではスクラップ工場でもお目にかかれないような「骨とう品」がきしみながらカーブを滑る。鼻先が私の席のドアをかすめる。私の背中を、べたつく嫌な汗がゆっくりと降りてゆく。この山道ではガソリンや木材を満載した大型トラックが鉢合わせして通り抜けできず、お互いにエンジンを切って道を譲るのを拒んでしまう。後ろから他の車が考えもせずに車間距離を詰め、大渋滞が起こるのである。この状態は今のアフガニスタンを現しているかもしれないという考えが、私の頭をよぎることがある。無法、汚職、談合、贈収賄。みんながみんな今の自分の利益を求めて手段を選ばず走っているけれど、それではこの国が国として機能していかないことは明らかだ。この国の政治や経済が行きづまったとき、それを打開するのは先を見通した相互利益という考え方ではないのだろうか。何も難しい話ではない。日本ではこんな時、道を譲り合って自然と交互に車は狭い道を通り抜けるという、あの知恵であり、システムである。私のコンボイが3時間以上も足止めを食っている間、ドライバー達は口々に何かを叫び合いながら、道を行ったりきたりしていたが、そのうち一方が折れて車列を後ろに戻し、その断崖と小川にはさまれた道を通り抜けた。今夜宿泊する村に着いたとき、時刻は深夜を回っていた。

1022  しかしひとたび車窓から外を眺めれば、この土地は自然が織り成す美しさであふれている。ポプラの若木が風にそよぎ、木漏れ日が私に降り注ぐ。黄金に輝く小麦畑の中で、女性が背中を丸めて刈入れをしている。子ども達が牛を追い、男達が薪を背負って帰路を急ぐ。小川の上を滑ってきた風が車内を一瞬清めて去っていき、遠くにパルテノン神殿を思わせる岩肌を見せた山が神々しく鎮座して私を見下ろす。小川を渡り林を抜け、小さな村落を幾つも通り抜けていく間に、私は自分がだんだんこの風土の一部になっていく感じがする。休憩時間に車を降り、思いっきり背伸びをして深呼吸をすると、その空気は私の肺を通じて体の隅々まで行き渡り、指の先まで充実した気分になる。太陽の光が頭の先から降りてきて、足元から地面に染み込んでいく。自分が自然の一部だと感じる瞬間である。この土地は美しい。そして、自然は私の想像を越えたところで互いに結びつき、全てを包み込む。戦車の残骸ですら、いつの間にか地面に溶けかかり始めている。気がつくと私の心が少しだけ軽くなっている。

 明日はやっとナハリンである。

10月 9, 2003 事務所・スタッフ | | コメント (0)

2003年10月 2日 (木)

ナハリンへの道1(駐在員椎名カブール日記)

1021  ナハリンへ出発する前日は、いつも何か真っ暗なトンネルに入っていく気持ちがする。治安状況は確認した。車両も無線もチェックした。水も充分に積んだし、スペアタイアもある。やらなければならないことはリストアップしたし、ナハリンに着けば村人が歓迎してくれるだろうと感じてもいる。でも駄目なのである。「メロン幾つ買ってこようかな。」などと現地スタッフと無駄口をたたいて気分を紛らわせようとしても無駄である。それはじわじわと足元から這い登り、胸を締め上げる。私は静かに深呼吸する。頭を振る。

 ナハリンは昨年、大地震により大きな被害を受けたアフガン北部、バグラン州の田舎である。倒壊した家屋に押しつぶされて多くの人が亡くなったこの地域で、ジェンは募金によって集められた資金を使って井戸掘削事業を行なっている。私はこの事業を計画、実施、監督しているのである。北に抜けるサラン峠のトンネルが修復工事で通行止めのため、通常8時間半で行けるところを、今は砂埃と砂利の道を17時間以上揺られて行かなくてはならない。道中の交通事故も多い。精神的にも肉体的にも辛い旅である。

 うつらうつらしながら夜を過ごし、日の出前にベッドから抜け出す。電子メールをチェックし、同僚のデスクに私の部屋の鍵を置く。手荷物をまとめ外に出ると、意外に冷たい空気が私の胸を刺す。いつの間にか、こんなに近くに冬が迫っている。二人の運転手と短い挨拶をする。モスクから聞こえる祈りの声。門番の短い咳払い。朝日がゆっくり昇ってくる。「さあ、メロンでもいっぱい食べてくるか。」カラ元気を出したつもりだったが、自分の声が意外に小さくてびっくりする。運転手が少し笑ったような、困ったような顔をする。出発である。

 カブールの町はまだ眠りから覚めたばかりで、日中の喧騒が嘘のように静まり返っている。マーケットの中をうろついていた痩せた犬が私をちらりと一瞥する。私を乗せた車はその静かで冷ややかな空気を吸い込みながら北へ走る。チャリカまでの1時間あまりの道のりの間、私は何か忘れたことは無いか考えをめぐらすが、気がつくと考え疲れて眠ってしまっていた。チャリカの見慣れた町並みが見えてくる。事務所の門番が、何か眠そうに門を開け、私の顔を見て目を丸くする。チャリカでナンと砂糖がたくさん入った緑茶という朝食を取り、東京に事務連絡の電話を入れる。私は話しながら、自分の声が上ずっているのを感じる。「治安に特に気をつけて。」と同僚が声をかけてくれる。メロンのお土産を私に頼むことを忘れないチャリカの同僚と握手をして、私は更に北を目指す。いつの間にか日が高く上り、アスファルトの道が白っぽくかすむ。私は同伴車とのコンボイの編成に気を使いながら走り続ける。

 舗装された道に別れを告げ、砂埃舞う道を、右手に岩山、左手に清流を見ながらしばらく進む。この道は遠くバーミヤンに続いている。山間に土色をした集落がいくつか見える。どうしてあんな高いところに家を建てるのだろう。他人が入ってくるのを拒んでいる。高い塀に囲まれた家が見える。少し風化したその壁は地面と同化し、まるで地面から生えてきたかのようである。

 道は次第にうねるように山道を登り始める。これから「天国と地獄」が見える場所にさしかかる。

10月 2, 2003 事務所・スタッフ | | コメント (0)