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2003年1月23日 (木)

スイッチが入る瞬間(駐在員椎名カブール日記)

123  私がNGOの世界に入ってもうすぐ2年が経とうとしている。

 NGOでの仕事は私にとって、長距離走で長い下り坂を走るのに似ていると感じる時がある。自分ではもう少し自分のペースを守って走りたいのに、足だけがどんどん坂を下ろうとして上半身がのけぞる、あの感じである。危ないと感じているのに、さらに車のアクセルを踏み込む感じである。最初の赴任地だったインド・グジャラート州で震災復興支援事業を行なっているとき、私は事業が無事完了するのが先か、私が倒れるのが先かの二つに一つだと思いつめたことがある。学校から出たばかりの頭でっかちの私は、現地での様々なトラブルの渦の中で、それこそじっと自分の手を見ずにはいられない、得がたい経験をさせていただいた。36度、インド炎天下の中のテント設営。受益者同士の争い。マラリアの恐怖。腹痛で迎える夜明け。下水の匂いのする部屋の中で、余震に怯え、腹痛に耐えながら私は孤独だった。人が信じられなくなり、自分に自信が全く持てなくなっていた。そんな中で、私が活動を続けられたのは、幾つかの“スイッチが切り替わる瞬間”のおかげである。

 この年末、私は風邪をこじらせ熱を出してしまった。アフガニスタンでのシェルター事業は終盤を迎え、私は現場をくまなく回らなければならない。新しい事業を企画し、休日返上、深夜まで予算案を立てなければ現地スタッフが路頭に迷う事になる。同僚は他の事業にかかりっきりになっていて、迷惑をかけるわけにはいかない。その日、私は重い頭と寒気のする体をもてあましながら、フランスのあるNGOに井戸掘削の現場を見学させてもらう事になっていた。気分は最悪で、これから1日の事を考えると憂鬱だった。そんなときに、その瞬間は訪れる。全く唐突に、予期しない形で。

 今回のその瞬間は、掘削機械がきしみながら始動した瞬間だった。爆音と共に機械はうなりを上げて水をパイプに送り出し、パイプの先についた回転式の刃が地面を削りだす。黒い煙が吐き出される。泥水があふれ、人々の期待と不安の目がそこに注がれる。すると私はデジカメを手に泥だらけの現場を小走りしながら写真を取ったり、現場エンジニアに機械について質問しながら詳しい説明を求めていたりしている自分に気付く。私は自分の体の中でマイナスの気が一気にプラスに転じるのを感じる。血が騒ぐ。そうなると私はただその衝動のようなものに体を任せ、ただ走り、笑い、怒り、歩き回るだけである。幼いころ、私は父に連れられて父の仕事場に行き、父の運転するブルドーザーの起こす地響きにドキドキしたっけ。いつのまにか頭痛は消え、体がぽかぽかしている。力が体にみなぎっているのを感じる。

 この貴重な瞬間は今のところ自分で意識的に決められるものではない。それは多くの場合、新しいものに触れたり、現地の方々と触れ合う機会に恵まれたりするときに突然起こる。ボスニアではセーターを編んでいた老婦人にそのセーターを着させていただいた瞬間だった。インドでのそれはキャンプサイトの子供達が私を見ると駆け寄ってきて私に抱きつき、彼らの熱い息と心臓の鼓動を自分のわき腹に感じた時だった。私はその子供達の小さな鼓動を今でも同じ場所に感じることができる。大震災を生き延びた、熱い生命の息吹。私は今日も現場に向かう。すると今まで作業を渋っていた受益者のシェルターに窓ガラスが入っているのが見える。私は反射的に車のドアを開け外に飛び出す。かばんからペンが落ちる。私はそのペンを拾いながら、自分がまたその衝動のようなものに動かされようとしていることに気付き、苦笑いする。そして深呼吸を一つして受益者のもとへ向かう。一歩ずつ。自分を確かめるように、取り戻すように。私は頭の中でアクセルを踏み込む。今度こそ、前のめりに坂道を駆けおりてやる。

 私はこの仕事が嫌いではない。

1月 23, 2003 住宅再建 | | コメント (0)

2003年1月16日 (木)

地雷原に触れる2(駐在員椎名カブール日記)

16  イスラマディンの住む村は北に延びる主要道路の脇にあり、タリバンと北部同盟の戦場になった場所にある。今でも地雷や不発弾が散在し、家屋の横に戦車砲の薬きょうが並べてあったりする。現在、幾つかのNGOがジェンの活動地域で地雷除去活動をしているけれど、まだこの道路脇の除去作業でさえ終わっていない。除去員は一人ずつ地面にうずくまり、地表を少しずつ削りながら作業をしている。その姿はまるで、小さなヘラで大地を黙々とひっかいているかのよう見える。危険な“現代“遺跡発掘、考古学調査。掘り当てるのは私たち人間のおろかな歴史ばかりだ。アフガンでの地雷除去にかかわる友人の話によると、住宅地での除去にあと5年かかる予定だということだが、本当にそれだけで終わるのだろうか。気が遠くなる。 村人の案内で村を回るうち、真新しく赤と白に塗り分けられた石の列が現れる。地雷原のしるしである。私はその石の列にはさまれた小道を歩いて次の受益者に会いに行くのだ。しばらく行くとその石の列が途絶え、草むらの中に1本道が見えた。私は村の人々が先導する中、その道を歩く。一緒に回っているスタッフが「私の後ろを歩いて。足元に気をつけて。」と言って表情を険しくする。村人が普段使っている道だけれど、正直私は足が震えた。先ほど見た、赤くマーキングされた石が血塗られた石のように思えてくる。歩きながら、私は以前現地の地雷除去員に聞いた話を思い出す。「マーキングされた石が置いてある場所は危険だから近づかない方がいい。石がない場所も、チェックされていないということかもしれないから歩かない方がいい。」じゃあ一体何処を歩けばいいんだと私は一人でぼやく。日本で見た、地雷爆発の瞬間を捕らえたテレビ映像とその音が頭の中でこだまする。アフリカのどこかの国で偶然撮影されたというそれは「パン」という、思ったより高い音がしたっけ。 
先を行くスタッフの足元から目が離せない。瞬きも出来ない。なぜかひざの裏が痛み始めた。空気が薄いんじゃないのか。胸の奥まで息を吸いたい。息が苦しい。

 急に目の前が明るくなった気がした。草むらを抜けたのだ。

 肩で大きく息をした後、私が感じたのはやりきれなさと怒りだった。イスラマディンもこの道を通っているのか。そうなのか?私は一緒に働いた受益者の方々が、毎日この脅威を感じながらの生活を強いられている事に無性に腹がたった。何なんだこれは?何なんだ?怒りのやり場がなくて、私はしばらく声が出なかった。 

 事務所に帰る車の中、私は片足を失った彼の姿と、松葉杖をついた多くの少年達の姿をぼんやり想像していた。長い列を作る松葉杖の人々。その列の最後には、イスラマディンのやせた後ろ姿が見えた気がした。

 日本にいたとき、地雷の恐怖は私にとって顔の見えない漠然としたものだった。1日に地雷で150人以上の人が被害にあっていると聞いても、なにかつかみ取れない脅威だった。アフガニスタンで働きだしてから、片足を失った人々を何度も目にしたけれど、時間が経つと共に私の感覚は擦り減って、いちいち反応しなくなった。でも、イスラマディンに出会った後、私にとって地雷の恐怖は彼の顔と存在感を持った新たな恐怖に変わった。私は時々、そっと自分の足に触れてみる。今でもアフガニスタンのどこかで地雷があの音を立てて爆発し、彼のような少年が被害にあっていると考える時、私はざらざらしたものを心に感じる。ひざがまた痛み出す気がする。そして私は、何かを思い切り蹴飛ばしたい衝動に駆られて席を立つ。

1月 16, 2003 事務所・スタッフ |

2003年1月 9日 (木)

地雷原に触れる1(駐在員椎名カブール日記)

19  6の村で500軒のシェルター事業を行なっていると、どうしても全ての受益者の方にいつもお会いできるわけではない。足を棒にして1日中歩き回っても40軒をまわるのがせいぜいである。全ての受益者の顔や家族の方を記憶するのも難しい。けれど、受益者をまわる内、自然と印象に残る出会いというものがある。イスラマディンとの出会いも、そんな出会いの1つだ。

 私が彼の村を訪れたのは、シェルター事業も終盤を迎えた今、その建設作業を見届けて最終確認をするためだった。私は一人のフィールドスタッフを連れてここ数日村々を歩き回り、シェルター事業の受益者を訪ねながら作業の完了を促したり、記録の為写真をとりながら受益者から話を聞いていたりしていた。イスラマディンにもそんな受益者の一人として話を聞いたのだった。
彼はコックとして働く父を持つ、10人家族の3番目の息子である。カブールで7年間の国内避難民生活を送った後、故郷に帰ってきたという。上の2人の兄はイランに難民として出て以来連絡が途絶えている。彼は10代前半の若さで母親を支えながら、父親のいない間家を守っている。私の訪問に際し、兄弟と共に戸口に出てきた彼は、寒空の下シャツに薄いジャケットしか羽織っていなかった。

 私が彼に関心を持ったのは、そのシェルターを見たからだ。猫の額ほどの土地に、決して上手に出来ているわけではないが、彼を中心に兄弟が力を合わせて建てたという日干し煉瓦の住居は、彼らの手形が浮き出て見えるようだった。イスラマディンはトイレの設置を促す私の言葉に注意深く耳を傾け、私たちはしばらく一緒に話し合った。家の経済状況は決して良くない事は見た目にも明らかなのに、彼は決してこびへつらったりせずに、年下の兄弟達をあやしながら、私たちは全てを無くしてしまったけれど、日本の支援のおかげで自分達の家を見つけることが出来た、とても感謝していると丁寧なお礼を述べてくれた。彼の妹がはにかみながら、私を見上げる。 
 私はふと、この瞬間のために自分はこの仕事を続けていると感じる。彼らが私達と一緒に働いてくれた事に感謝する。

 どんなに一生懸命支援をしていても、至らないことで受益者との間に誤解や行き違いが生じ、彼らと口論になることがある。受益者の方の一部から非難され、場合によってはもうかかわらないでくれと言われる事もある。どうしてもこちらの意図が伝わらずにそう言われる瞬間は、重い岩を急に受け止めるような気分になる。私はそんな時、重たい足を引きずりながら、私のこの5ヶ月は何だったのだろうと、じっと自分の足元を見ながら歩く事になる。だから、受益者の方にお礼を言ってもらえたときは本当にほっとする。今回彼が私としっかり向き合ってお礼を言ってくれた時、私は彼の家族を支援出来た事を嬉しく思うことが出来たし、あの暑い夏のさなかの建設作業について、あれはお互い大変だったよなあと、肩をたたき合いたい気持ちになった。大げさではなく、私は彼のような受益者に会えたことで、アフガニスタンに来て良かったと、素直に思うことが出来たし、父親と同じようにコックになりたいという彼の夢が、近い将来実現する事を祈らずにはいられなかった。

 地雷原の脇を歩いたのは、そんな出会いのすぐ後のことだった。

1月 9, 2003 事務所・スタッフ | | コメント (0)