« 人と人の間にあるもの(駐在員椎名カブール日記) | トップページ | 11,456人のための新しい学校 »

2002年10月 9日 (水)

ライバルは同僚?(駐在員椎名カブール日記)

2  アブドラは私がアフガニスタンでとても信頼しているスタッフの一人である。彼は私の同僚であり、アフガン支援の先輩であり、ある意味目標でもある。彼は私が担当しているシェルター事業のプロジェクト・コーディネーター、現地責任者である。プログラム・オフィサーである私は彼と常に連絡を取り、事業の進行状況の確認や問題解決に取り組んでいる。

 アフガンで働く他の人から、アフガン人は仕事が出来なくてとこぼされることがあるが、私は違った印象を持っている。彼がそのいい例だ。私がプロジェクトについてろくに考えもせずに意見や指示を出そうものなら、彼の厳しい指摘と反論で蜂の巣にされてしまう。彼の口癖は「だけど椎名、君も知っているように…」であり、そのあとに「それでは受益者にパキスタンへ戻られてしまうよ」や「来年になったってこの事業は終わらないよ」が続く。そして彼は少しもえばらずに、現地の事情に通じた的確なアドバイスやアイデアを出してくる。私はしまったと慌てて取り繕おうとするが、後の祭りである。悔しいが、私はいつも彼に一歩先を行かれている気がしている。いつか彼をうならせる指示やアイデアを出してやろうと、私もない頭を絞る。

カブールの貧しい家庭に育った彼は、兵役についていた青年時代、傷つき、貧困にあえぐ人々を見てそういう人々のために働きたいと考えるようになったという。「私も経験があるから、彼らがどんな思いで生活しているか分かる。私はこの国で生まれ、学び、生きてきた。これからは自分がこの国にできる事をする時だと思っている。」彼は私をまっすぐ見ながら話す。当時アフガンで唯一人道支援を行っていたアフガン赤新月社で働き始めた彼は、同時に苦労して大学でエンジニアの学位を取得した。その後も実践で英語を学び、国際支援団体で活動を続けながら20年以上の紛争中もアフガニスタンに留まった。災害準備プログラムや帰還民の再定住支援などに関わってきた彼は、タリバン政権時代カブール市内での調査に女性のスタッフを雇用したことなどで身の危険にさらされながらも活動を続け、同時多発テロ以降の騒乱を迎えた。彼は俗に言う「たたきあげ」である。   

ジェンで働くきっかけを彼に尋ねると日本はアジアの一部であり、親近感を持っていたと答えた。彼は日本のアフガン支援に対して感謝しながらも、その支援金の用途に注意を呼びかける。「椎名も感じていると思うけど、言葉が出来ない日本人はアフガン人にだまされやすい。しっかりとしたモニタリングのシステムがないと支援が本当に必要な人々にまわらない危険が常にある。」日々の食料の買出しで痛い目にあったことのある私はうなずかざるを得ない。「アフガニスタンには低識字率と貧困という大きな問題がある。しっかりとした軍隊を整備して治安を確保するのと同時に、先ずはアフガンにあった教育システムを作ってこれからのアフガニスタンの基礎にすべきだと思う。」私には来年長男が学校に上がる彼の、父親としての気持ちがそこにのぞいている気がする。
私は彼を同じ支援活動で働く人間としてとても尊敬している。私は彼と一緒に活動に係ることができることを感謝しながら、いつか彼をギャフンと言わせてやろうと日々彼の胸を借りている。

 「Oh, 椎名、そんなことしてたら日が暮れちゃうよ。それだったら…」

 しまった。ちくしょう、今に見ていろ。

10月 9, 2002 事務所・スタッフ |

コメント

この記事へのコメントは終了しました。