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2002年10月 1日 (火)

アフガンで子どもや女性が生きることについて(駐在員椎名カブール日記)

1  彼に目が止まったのはバグラン州のプリフムリという町の食堂で昼食をしている時のことだった。とりあえずケバブをほおばって、皿から顔をあげて店内を見渡すと、5,6人の少年達が粗末な木でできた箱を肩にかけ、客の間を巡回しているのに気がついた。日本で言えば小学5,6年生ぐらいの年齢だろうか。靴磨きの少年達である。食堂の客は靴を脱いで床に座るので彼らは手ごろな靴を見つけるととりあえず磨き始める。食堂の客が気がついて止めない限りはそのまま磨いてチップを要求する。同時に食堂の客の残飯を失敬し、店の片隅で食べている。彼らと食堂の店員との間には微妙な緊張関係があり、あまり客にしつこくすると店員に店から追い払われる。彼は店員の動きに気を配りながら皿に残飯を集め、仲間の少年としゃがんで食事をはじめるところだった。後から別の少年がやってきて、脇から彼らの皿に手を伸ばした。すると彼はその少年の腕をとっさにつかむと、そのまま少し上目遣いに彼を見据えた。ほんの一瞬の出来事だったが、彼の子ども離れした視線の鋭さとその貫禄に、私は彼の生活の一部を見せつけられた気がしてはっとした。かわいそうだとか、同情とかいった感情はおきず、むしろ尊敬に近い感情だった。彼はたくましかった。

 彼はナジールと名乗った。12歳だという。2人の兄弟と6人の姉妹がいる家族に育ち、靴磨きは両親に勧められて始めたと言う。1回の靴磨きでもらえるお金は3,000アフガニー、約7.5円。アフガンでは地元のパンが1枚と砂糖なしのお茶が飲める。「学校は?」と聞くと「行っていない」とだけ無表情に答えた。将来の夢だとかについて訪ねてはみたけれど、政府の役人になって国の役に立ちたいとか、模範的な答えをしてくれるだけだった。私はそれまでの経験で、同じ答えを何度も別の少年達から聞いていた。アフガンの子供達は他人に話す夢の種類が少なすぎる気がする。子供たちが話すことがすべて真実だとは限らないし、聞き手の私を見極めて話を創ってくれることもあるようだ。

 アフガンの路上では様々な“仕事”につく子供たちに出会う。交通渋滞の中で新聞や雑誌を売り歩く少年。車椅子の少女を連れてお金をせがむ少女。アスファルトがはげた道路にスコップで形ばかりの砂を被せ、車がそこを通るたびに敬礼してお金を要求する少年達。
私は彼らにたくましさへの感心や苛立ちなどが混じった複雑な気持ちを抱くとともに、自分の少年時代がいかに恵まれたものだったのかを認識させられる。太平洋戦争敗戦後の日本でも私の祖父はこんな少年時代をおくったのだろうか。 

 レストランでの出来事はそれで終わらなかった。
 食後のお茶を飲んでいるとき、草木色のブルカを被った女性が店内を回り始めた。彼女達のブルカは穴だらけで、何年も洗っていないかのように汚かった。すると袖から黒い手を差し出してローカルスタッフにお金をせがんでいた手が、私達が残したケバブの脂身に伸びてあっという間もなくそれを串から抜き取ってしまった。うろたえた私たちは残っていたパンのかけらも渡してしまった。

 それを見て私のコーラの空き缶を奪って残りの一滴まで飲む少年たちも、すごすごと引き下がった。女性が家の外で仕事をすることが難しい国において、彼女の生きる手段はとても限られている。彼女は靴磨きをすることさえもできず、ただ手を差し伸べるしかないのだ。彼女の食べ物への執念、“生”への執念は日本から来た私だけでなく子ども離れした貫禄を持つ店内の子供たちでさえたじろがせるものだった。彼女が他の客にお金をせがんでいる姿を見ながら、私の頭に浮かんだのは「なぜ人間はそこまでして生きなければならないのだろうか」という普段なら考えもしないような、今考えると少し気恥ずかしい問いだった。彼女に尋ねたら、どんな答えをくれただろうか。きっと答えを聞く為にお金を要求され、「そんな事を考える暇があったらもっとお金をくれる客を探すよ」と言われるのがおちだろう。

 “温室育ち”の私が書類上にただの数字の羅列となって示される、支援が必要とされる人々を見るとき、私はナジールのあの視線と、ブルカから出た、脂身を握り締めるあの黒い手を思い出すようにしている。私は、私が経験したこともない年月を過ごしている彼らに何が出来るのだろうか。私の支援活動に、彼らの生活の重みをともに受け止められる真摯さ、たくましさがあるかどうか。私は考える。

10月 1, 2002 事務所・スタッフ |

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