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2002年10月17日 (木)

11,456人のための新しい学校

2202  「第16小学校」に引き続き、JENの学校修復第一弾として始まった「パンジャサッド・ファミリー・ハイ・スクール」でも、去る9月3日(水)に修復工事が完了しました。その完了報告をお届けします。

【修復事業の背景】
 1979年に建てられたこの学校には、56の教室、1つの会議室、演習室と子供用の教室、そのほか校庭などの施設があり、過去10年間、修復や整備は行われて来ませんでした。また長年にわたる厳しい情勢の中、国内避難民の家族が住み着いていたことも、校舎の荒廃の一因となっていました。現在この学校では11,456人(男子5,010人、女子6,446人)の生徒たちが、242人の先生(男性46人、女性196人)のもとで、1日3交代で勉強をしています。この学校の修復事業は、約3ヶ月半前に始まったのですが、その開始当時から今までに生徒数はすでに2,000人も増加しています。また、難民のカブールへの帰還数の増大に伴って、生徒の数は今なお増え続けています。2203

【事業の内容】
 この学校の修復事業では、壁の塗り替え、壊れた屋根の撤去と修復、梁の調整、塗装、ドアと窓の修復、校庭の整備などが行われました。アフガニスタンはこれから寒い季節を迎えることになりますが、修復工事が完了した今、この1万人以上の生徒達は以前よりもずっと良い環境で学ぶことが出来るようになりました。これと同時に、約1万人の人々がUNDP(国連開発計画)との協力による「REAP(=Recovery and Employment Afghanistan Program)プロジェクト*」の一環として、短期間ではありますが、仕事に就くことが出来ました。長年の内戦で破壊された学校や、タリバン政権下で学校へ行くことが出来なかった女の子たちをはじめとする大勢のアフガンの子供たちの、一人でも多くの明るい未来と笑顔のために、JENは支援活動を続けて行きます。

*REAPP(=Recovery and Employment Afghanistan Program)プロジェクト:アフガニスタンの失業者のための雇用促進事業

10月 17, 2002 学校修復・建設教育支援 | | コメント (0)

2002年10月 9日 (水)

ライバルは同僚?(駐在員椎名カブール日記)

2  アブドラは私がアフガニスタンでとても信頼しているスタッフの一人である。彼は私の同僚であり、アフガン支援の先輩であり、ある意味目標でもある。彼は私が担当しているシェルター事業のプロジェクト・コーディネーター、現地責任者である。プログラム・オフィサーである私は彼と常に連絡を取り、事業の進行状況の確認や問題解決に取り組んでいる。

 アフガンで働く他の人から、アフガン人は仕事が出来なくてとこぼされることがあるが、私は違った印象を持っている。彼がそのいい例だ。私がプロジェクトについてろくに考えもせずに意見や指示を出そうものなら、彼の厳しい指摘と反論で蜂の巣にされてしまう。彼の口癖は「だけど椎名、君も知っているように…」であり、そのあとに「それでは受益者にパキスタンへ戻られてしまうよ」や「来年になったってこの事業は終わらないよ」が続く。そして彼は少しもえばらずに、現地の事情に通じた的確なアドバイスやアイデアを出してくる。私はしまったと慌てて取り繕おうとするが、後の祭りである。悔しいが、私はいつも彼に一歩先を行かれている気がしている。いつか彼をうならせる指示やアイデアを出してやろうと、私もない頭を絞る。

カブールの貧しい家庭に育った彼は、兵役についていた青年時代、傷つき、貧困にあえぐ人々を見てそういう人々のために働きたいと考えるようになったという。「私も経験があるから、彼らがどんな思いで生活しているか分かる。私はこの国で生まれ、学び、生きてきた。これからは自分がこの国にできる事をする時だと思っている。」彼は私をまっすぐ見ながら話す。当時アフガンで唯一人道支援を行っていたアフガン赤新月社で働き始めた彼は、同時に苦労して大学でエンジニアの学位を取得した。その後も実践で英語を学び、国際支援団体で活動を続けながら20年以上の紛争中もアフガニスタンに留まった。災害準備プログラムや帰還民の再定住支援などに関わってきた彼は、タリバン政権時代カブール市内での調査に女性のスタッフを雇用したことなどで身の危険にさらされながらも活動を続け、同時多発テロ以降の騒乱を迎えた。彼は俗に言う「たたきあげ」である。   

ジェンで働くきっかけを彼に尋ねると日本はアジアの一部であり、親近感を持っていたと答えた。彼は日本のアフガン支援に対して感謝しながらも、その支援金の用途に注意を呼びかける。「椎名も感じていると思うけど、言葉が出来ない日本人はアフガン人にだまされやすい。しっかりとしたモニタリングのシステムがないと支援が本当に必要な人々にまわらない危険が常にある。」日々の食料の買出しで痛い目にあったことのある私はうなずかざるを得ない。「アフガニスタンには低識字率と貧困という大きな問題がある。しっかりとした軍隊を整備して治安を確保するのと同時に、先ずはアフガンにあった教育システムを作ってこれからのアフガニスタンの基礎にすべきだと思う。」私には来年長男が学校に上がる彼の、父親としての気持ちがそこにのぞいている気がする。
私は彼を同じ支援活動で働く人間としてとても尊敬している。私は彼と一緒に活動に係ることができることを感謝しながら、いつか彼をギャフンと言わせてやろうと日々彼の胸を借りている。

 「Oh, 椎名、そんなことしてたら日が暮れちゃうよ。それだったら…」

 しまった。ちくしょう、今に見ていろ。

10月 9, 2002 事務所・スタッフ | | コメント (0)

2002年10月 6日 (日)

人と人の間にあるもの(駐在員椎名カブール日記)

3  カブールから北へ伸びる主要道路はショマリ平原の真ん中を突っ切って伸び、私を乗せた車は両側に崩れた家々や地雷原を見ながらその道を走る。道路わきにひっくり返った戦車の残骸を50台ほど数えるとそこがチャリカである。

 ジェン・チャリカ事務所で働くスタッフはドライバーや門番を入れて全部で25人ほど。前回書かせていただいたアブドラを中心に、チャリカの46の村で日々シェルター事業に取り組んでいる。年齢は20歳から62歳までで、バックグラウンドや性格は様々である。冗談を飛ばし、飄々としているが、実はとても熱血漢で事務所にじっとしていないハルーン、勉強家で知識豊富、話し出したら止まらないジャラル、手がつぶされるかと思うくらいきつく握手をしてくるジャムシッド。その他性格や風貌も全く異なったスタッフ達は、わいわいがやがや、文字通り寝食を共にしながら仕事をしている。私は彼らと一緒に輪になって床に座り、みんなの顔を見ながら昼食を食べるのが好きである。「仲間」「同士」という感覚が味わえるからだ。

 村々を回るとき、私はその村を担当しているスタッフと村人がどんな風に会話しているかに最も関心を払う。私がアフガニスタンで働くようになってつくづく感じるのは「ジェンとはそのスタッフである」ということだからである。ジェンのスタッフがどのように村人と接し、一緒に事業を行うのか。シェルター事業を行なっているとき、一番苦労するのは物資の運搬でも建設自体でもなく、村人の説得である。事業は村人の協力、理解をいかに取り付け、問題が発生したときに一緒に解決できるかにかかっている。受益者に直接係る現地スタッフの、村人に対する態度はアフガンでのジェンの運命を左右する。
 「俺が作ったリストに文句あるのか!日本は金持ちなんだからけちけちせずに500軒でも1,000軒でも援助すればいいんだよ!俺の方がお前らなんかよりこの土地に詳しいんだから俺に支援の配布を任せろ。お前らが俺のリストのチェックをすることは許さない!」

 現地の役人にそう言われ、気が短い私はカッと頭に来たり、途方にくれたりすることがある。かと思えば建材の早期配布を訴えて事務所にやって来た村長に、カブールからの建材の遅れや現状での努力をご説明してかえってとても感謝され、絆が深まることもある。以前働いていたインドで、支援物資の輸送費に頭を悩ましていた私に、村人が集まって相談しトラクターを出して助けてくれたことがあった。 
私たちの支援というのは人と人の間にあるものだと、私は思うようになった。馴れ合いにならずに、お互いの持ち味を出せる関係。スタッフの間でも、スタッフと受益者との間でも。ジェンの本領はそこに発揮されなければ。 

 …と私はそこまで考えたところで、わが身の日頃の短気と忍耐力のなさを反省するのである。

10月 6, 2002 事務所・スタッフ | | コメント (0)

2002年10月 1日 (火)

アフガンで子どもや女性が生きることについて(駐在員椎名カブール日記)

1  彼に目が止まったのはバグラン州のプリフムリという町の食堂で昼食をしている時のことだった。とりあえずケバブをほおばって、皿から顔をあげて店内を見渡すと、5,6人の少年達が粗末な木でできた箱を肩にかけ、客の間を巡回しているのに気がついた。日本で言えば小学5,6年生ぐらいの年齢だろうか。靴磨きの少年達である。食堂の客は靴を脱いで床に座るので彼らは手ごろな靴を見つけるととりあえず磨き始める。食堂の客が気がついて止めない限りはそのまま磨いてチップを要求する。同時に食堂の客の残飯を失敬し、店の片隅で食べている。彼らと食堂の店員との間には微妙な緊張関係があり、あまり客にしつこくすると店員に店から追い払われる。彼は店員の動きに気を配りながら皿に残飯を集め、仲間の少年としゃがんで食事をはじめるところだった。後から別の少年がやってきて、脇から彼らの皿に手を伸ばした。すると彼はその少年の腕をとっさにつかむと、そのまま少し上目遣いに彼を見据えた。ほんの一瞬の出来事だったが、彼の子ども離れした視線の鋭さとその貫禄に、私は彼の生活の一部を見せつけられた気がしてはっとした。かわいそうだとか、同情とかいった感情はおきず、むしろ尊敬に近い感情だった。彼はたくましかった。

 彼はナジールと名乗った。12歳だという。2人の兄弟と6人の姉妹がいる家族に育ち、靴磨きは両親に勧められて始めたと言う。1回の靴磨きでもらえるお金は3,000アフガニー、約7.5円。アフガンでは地元のパンが1枚と砂糖なしのお茶が飲める。「学校は?」と聞くと「行っていない」とだけ無表情に答えた。将来の夢だとかについて訪ねてはみたけれど、政府の役人になって国の役に立ちたいとか、模範的な答えをしてくれるだけだった。私はそれまでの経験で、同じ答えを何度も別の少年達から聞いていた。アフガンの子供達は他人に話す夢の種類が少なすぎる気がする。子供たちが話すことがすべて真実だとは限らないし、聞き手の私を見極めて話を創ってくれることもあるようだ。

 アフガンの路上では様々な“仕事”につく子供たちに出会う。交通渋滞の中で新聞や雑誌を売り歩く少年。車椅子の少女を連れてお金をせがむ少女。アスファルトがはげた道路にスコップで形ばかりの砂を被せ、車がそこを通るたびに敬礼してお金を要求する少年達。
私は彼らにたくましさへの感心や苛立ちなどが混じった複雑な気持ちを抱くとともに、自分の少年時代がいかに恵まれたものだったのかを認識させられる。太平洋戦争敗戦後の日本でも私の祖父はこんな少年時代をおくったのだろうか。 

 レストランでの出来事はそれで終わらなかった。
 食後のお茶を飲んでいるとき、草木色のブルカを被った女性が店内を回り始めた。彼女達のブルカは穴だらけで、何年も洗っていないかのように汚かった。すると袖から黒い手を差し出してローカルスタッフにお金をせがんでいた手が、私達が残したケバブの脂身に伸びてあっという間もなくそれを串から抜き取ってしまった。うろたえた私たちは残っていたパンのかけらも渡してしまった。

 それを見て私のコーラの空き缶を奪って残りの一滴まで飲む少年たちも、すごすごと引き下がった。女性が家の外で仕事をすることが難しい国において、彼女の生きる手段はとても限られている。彼女は靴磨きをすることさえもできず、ただ手を差し伸べるしかないのだ。彼女の食べ物への執念、“生”への執念は日本から来た私だけでなく子ども離れした貫禄を持つ店内の子供たちでさえたじろがせるものだった。彼女が他の客にお金をせがんでいる姿を見ながら、私の頭に浮かんだのは「なぜ人間はそこまでして生きなければならないのだろうか」という普段なら考えもしないような、今考えると少し気恥ずかしい問いだった。彼女に尋ねたら、どんな答えをくれただろうか。きっと答えを聞く為にお金を要求され、「そんな事を考える暇があったらもっとお金をくれる客を探すよ」と言われるのがおちだろう。

 “温室育ち”の私が書類上にただの数字の羅列となって示される、支援が必要とされる人々を見るとき、私はナジールのあの視線と、ブルカから出た、脂身を握り締めるあの黒い手を思い出すようにしている。私は、私が経験したこともない年月を過ごしている彼らに何が出来るのだろうか。私の支援活動に、彼らの生活の重みをともに受け止められる真摯さ、たくましさがあるかどうか。私は考える。

10月 1, 2002 事務所・スタッフ | | コメント (0)