バージル ベルランドさん(以下Bさん)へのインタビュー
ジェンスタッフ:こんにちは。自己紹介をしてもらえますか?
Bさん:こんにちは。私は、1983年9月28日に生まれたバージル・ベルランドです。
ブリストゥ地域にあるぺシオンビルというところに住んでいます。
ジェンスタッフ:
地震が起きた時、あなたはどこにいましたか。また、その後どうしましたか。
Bさん:地震発生時、私は2人の姉妹と一緒に家にいました。彼女たちは1階、私は2階にいました。
地震が起きた時、私は屋根から屋根へと飛びまわりました。
1人の姉はすぐに家を出ましたが、もう1人は余震が来て家が倒れてしまう直前にようやく家から出てきました。
家が崩壊した瞬間、私たち3人は幸い家から30~40メートル離れたところにいたので助かりました。
私たち誰一人としてこれほど大きな地震を経験したことがなかったのですが、音がとても変だったことを記憶しています。
ジェンスタッフ:地震の間何が一番印象的でしたか?
Bさん:家から飛び出して、屋根から屋根へと飛び移っていた時に、目の前が動いていたのが印象的でした。
ジェンスタッフ:地震直後、あなたの周りはどのような状況でしたか?
Bさん:周辺では大勢の人が叫び、家族の安否を確認していました。
余震の来る前にも、周辺の家々が壊れており、余震後さらにその数が増えていました。
そして、逃げ遅れた家族の名前を呼びながら人々が泣いていました。
最初に感じたのは恐怖で、被害の大きさについてはまだ把握できていませんでした。
15~30分くらい経ってからようやくがれきの下に人が埋まっていることや、多くの犠牲者がいたことに気づきました。
その日は夜がとても早く来たように感じましたが、それでもまだ助けられる人がいないかと外を探す人が歩き回っていました。
私は地震のショックが大きくて、最初何をすればいいかわかりませんでした。
唯一考えていたのは、姉妹が無事に家を脱出したかどうかでした。
なので、周りにいる人たちに彼女たちの安否を尋ね回っていました。
2人に会ったときに初めて安心することができ、親戚たちに電話をしました。
ジェンスタッフ:まだ電話線は繋がっていましたか。
Bさん:はい、地震発生後から1時間たった時から電話が通じました。
ジェンスタッフ:この地震でどなたかお知り合いの方は被害を受けましたか?
Bさん:はい、私はジャクメルで職人として働いていましたが、そこの主任者を務めていた私の従弟と彼の17歳の息子が地震により亡くなりました。また、親友がポルトープランス大学で亡くなってしまいました。
ジェンスタッフ:地震発生直後の夜はどこで泊まりましたか。
Bさん:サッカー場で大勢の人々と一夜を過ごしました。みんな1人で来ていたわけではなかったのですが、グループにまとまっていたわけでもありません。
一晩中人は出入りをしていました。余震がまだ続いていたため、その都度パニックが起き、泣き叫ぶ人もいれば、神様を呼ぶ人もいました。
ジェンスタッフ:あなたは略奪を見かけましたか。
Bさん:地震の最中はそんな余裕はなく、なぜこのような地震が起きたのかと恐怖の中にいました・・・
私だけでなく周りの誰もが経験したことがなかったのです・・・。
しかし、2~3日経ったころに、避難していた私たちは自分の家から物がなくなっていることに気づきました。
その頃から略奪が始まったのではないでしょうか。
ジェンスタッフ:あなた自身は強盗を実際に見かけましたか。
Bさん:いいえ、私はほとんどサッカー場にいたので略奪強盗を見ることはありませんでした。
しかし、自分の家から物がなくなっていました。
ジェンスタッフ:ハイチの今後についてはどのようにお考えですか。
Bさん:まぁ・・・、現時点での物事の進み方は非常に微々たるものだと思います。
まずは、未だに恐怖の中にいる我々を何かのイベントなどを通じてでもいいので一時的に安心させることが必要でしょう。
私自身も何か音を聞くたびにまた大地震だと思い、恐怖が戻ってきています。
国の復興に関しては、国際組織を通して小さな規模でしか進んでいないと思いますが、復興というのは長く時間のかかる取り組みだと思います。
注:ハイチの人々は大地震のことを「グドゥグドゥ」と呼びます
平成23年度 外務大臣表彰受賞しました。
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